日本の城ある記(関東の城・八王子城)

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 八王子城  (はちおうじじょう)

訪問記
 八王子城の存在を知ったのは最近のこと。日本100名城の一つとしてリストされていたから。そもそも、その日本100名城というのも最近知った。財団法人日本城郭協会という団体が2006年2月に制定したものだそだ。協会設立40周年の記念行事として文部科学省、文化省の後援を得て選定作業を行ったと案内文に書いてあったので、それなりに権威のある選定なのだろう。八王子城が選ばれたのは、代表的な山城の遺構が残っているからだそうです。
 出かけたのは9月の中旬。たまたま他に用がなく、その日の朝に思いついて、すぐさま横浜から車を飛ばした。横浜を出たのが朝の6時。8時前には八王子城の入り口にある駐車場に着いた。私の車以外に駐車している車はない。一番乗りなのか、それとも今日は他に誰も訪ねて来る者がいないのか、寂しい周りの様子に少々心細い。
 八王子城の登城口まで歩くと、そこには先客がいた。ボランティアの案内人もいる。それに環境省の管理事務所もある。なんだか急に仰々しい雰囲気になった。知る人ぞ知る隠れた城跡だと思っていたが、結構メジャーな扱いを得ている。100名城に選定されたからなのか、それとも元々有名であったのか。
 急に思い立って出かけてきたので予備知識は何もない。地図もないので、登城口の案内板を参考に、まずは大手門から居住区である御主殿跡を目指して歩きだす。管理事務所でもらったパンフレットには1990年の落城400年という節目に御主殿跡までの通路、石垣を整備したと書いてある。その通りよく整備されて、山城であっても居住区まではほぼ平たんな道が続く。
 御主殿跡から山頂の本丸跡を目指して山道に入る。結構急こう配もあって体力がいる。本丸跡には石碑と神社の小さな祠があるだけで、かつて此処に建造物があったのかイメージが湧かない。本丸跡からは眺望がきかないが、この下の松本曲輪は休息場所になっていて此処から相模平野が一望できる。
 本丸頂上までの登山道にいくつかの曲輪が配置されている。かつては石垣あるいは土塁で強固な陣地が構築されていたのだろうが、今は自然の地形と大して変りなく、山城としての険しさがさほど感じられない。よく当時の姿を残している山城として日本100名城に指定されたのであるなら、と思うと少しがっかり。まあ、山歩きのついでの城跡見物と考えれば、それなりに満足の城めぐりでした。(2009年9月23日)
  
 八王子城は標高445mの深沢山に築城された典型的な中世の山城。当初は滝山城の支城として築かれたが、北条家三代目氏康の三男・氏照が元亀(1571)頃より本格的な築城に着手し、天正15(1587)に本拠とした。当時すでに山城の建設は稀であったが、武田信玄の小田原攻めの途中で、滝山城が攻撃された際、落城寸前であったことの反省からより強固な構えの城として建設した。縄張りは東西約3km、南北約2〜3kmの広大な範囲に及ぶ。山の尾根や谷など複雑な地形を利用していくつかの地区に分けられていた。 
 
秀吉の小田原の役に際して、天正18(1590)7月24日、八王子城は豊臣側の軍勢約1万5千に攻撃される。城主の北条氏照はその時小田原本城に駆けつけており、八王子城を守備するものは城代の横地監物らわずかの将兵と領内から動員した農民・婦女子を加えた約3千人であったといわれる。
 難攻不落であるはずだった八王子城は、圧倒的な兵力での豊臣側の力攻めにより僅か1日で落城した。城代の横地監物は落城前に檜原村に脱出するが、そこで自害する。激戦により1000人以上の死傷者が出、氏照の正室・比佐を初めとした城内の婦女子は自刃、あるいは御主殿の滝に身を投じたといわれている。落城後、豊臣側は小田原城に籠る将兵への見せしめとして徹底的な壊滅作戦を行った。 また小田原への行軍の際、捕らえた者をみすぼらしい姿で先頭を歩かせ、これが小田原城を守備する将兵の士気を落とさせたとも言われている。小田原攻めでは、小田原城そのものでの戦闘はなかったが、その前哨戦では壮絶な戦いがあった。八王子の名前の由来は、延喜13(913) に華厳菩薩妙行がこのお城の山頂で修行中に、牛頭天王と八人の王子が現れた因縁で、延喜16(916)に山頂に八王子権現を祀ったことから。城の名前も八王子城と名付けられた。
 

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