日本の城ある記(関東の城・江戸城)

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 江戸城  (えどじょう)

訪問記
 江戸城=皇居のイメージが私の頭の中では固まっていた
したがって二重橋前や皇居前広場までは立ち入る事が出来ても、それ以外は立ち入り禁止と思っていた。30代後半に東京に転勤になり、以来20数年間ずっと東京の、しかもほとんどは皇居に近い場所にある事務所で勤務していた。にも拘らず、前述の様な理由で江戸城に立ち入ったことはなかった。もっぱら皇居外周のお堀外から眺めただけだ。それが退職後のある日、偶然に江戸城の本丸御殿跡や天守台跡地に立ち入ることができることを知る。もっともそのことで特段悔しい思いはない。これまでに立ち入ることが出来る事を知っていたとしても、訪れたかどうか分からない。現役のころは結構忙しい日常を送っていた。城跡見物は地方へ出張した折の退屈しのぎの楽しみ程度の興味でしかなかった。
 江戸城は徳川300年の執政の中心である。明治以降は天皇が京都御所から移られた。400年以上にわたって日本の中心的存在である。当然といえば当然のことだが私がこれまで訪れた日本の城郭の中で最大の規模である。皇居に隣接していることもあり警備や整備は完璧である。整然とした雰囲気は歴史の重さ以上のものを感じさせる。しかし確かに規模はデカいがちょっと趣がない。いや私の城巡りの対象としては恐れ多い気がする。将軍の私生活の場でもあっただろうが、そうした人間味が伝わってこない。すべてが綺麗事の表面的なものとして写ってしまう。どうやら私には天下人の気持ちを理解するのは無理なようだ。とはいえ大阪城や安土城を訪れたときは、それなりに血が騒ぐ思いをした。一般人に開放されてはいるが、やはり江戸城は昔も今も満々と水を湛えた堀に囲まれた特別に隔離された場所だ。(2008年6月10日)
 
 この地に最初に根拠地を置いた武将は江戸重継。平安末期から鎌倉初期にかけて、江戸氏の居館が現在の本丸、二の丸辺りにあったとされている。15世紀の関東騒乱で江戸氏が没落して、長禄1(1457)扇谷上杉家の家臣であった太田道灌が江戸城を築城。太田道灌は扇谷上杉の家臣として数々の武功をあげる。しかし上杉一族の領国支配に貢献した太田道灌は文明18(1468)、道灌の台頭を恐れた上杉定正に暗殺される。江戸城は上杉家の所有となった。
 その後江戸城は大永4(1524)扇谷上杉を破った北条氏綱の支配下になる。江戸の地は関東内陸部から利根川、荒川を経て品川、鎌倉に向かう交通路の確保のための重要な役割があった。天正18(1590)豊臣秀吉の小田原攻めの際に江戸城は開城した。同年の8月1日に徳川家康は北条氏の旧領、関八州を与えられ、江戸城を居城として入城した。
 
 
徳川家康が入城した当初は太田道灌築城当時のままの姿を残した比較的小規模な城であった。慶長8(1603)家康が江戸開府して以降、天下普請により江戸城の拡張に着手した。段階的に工事は行われ完成したのは3代将軍家光の時代、寛永13(1636)である。工事は諸大名に課役して行った結果、諸大名の財政は疲弊することになる。 
 天守閣は3度築かれている。最初は慶長12年(1607)。この城は2代将軍のとき取り壊されて元和8年(1622)に再建している。そしてこの元和期の天守も3代将軍家光によって寛永13年(1636)建て替えられた。将軍の代替わりの都度天守閣が建て替えられた理由は様々な説があり、確定的なものはない。

 明暦3年(1657)に所謂明暦の大火によって天守閣は焼失する。焼失後直ちに再建の計画がされたが、天守台が前田綱紀によって築かれただけで、建物の建築には着手されなかった。江戸市街の復興を優先したためといわれている。以後、江戸城に天守閣が再建されることはなかった。 





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