日本の城ある記(関東の城・小倉城) 

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 小倉城  (おぐらじょう)


ある
 杉山城から武蔵嵐山駅に戻り、今度は小倉城を目指す。駅からタクシーで約15分。大福寺の入口で下車する。大福寺の前面には堀跡があるようで、寺のある平場には居館があったと推定されている。
 小倉城は槻川(つきかわ)がU字形に大きく蛇行する、その先端部に張り出した丘陵地にある。秩父山地と関東平野の境目にあり、鎌倉、上州への交通の中間点として重要な位置にある。
 築城の時期は明確ではないが、発掘調査では16世紀中頃から後半としている。城主についても小田原北条氏の重臣遠山氏とする説と、武蔵松山城主である上田氏とする説があるが、いずれの説も確証となるものがない。廃城となったのは豊臣秀吉の小田原城攻めで北条氏が滅亡した時期とされている。

 大福寺に向かって右側に登城口の案内がある。まずは北虎口を目指す。最初は樹林の間を進む快適な坂道だが、城郭近くになると急勾配となる。それでも距離は大したことはない。坂を登りきると北虎口と郭3の中間地点に着く。そこに立っていた案内板によれば郭1の東斜面を盛り土して腰郭を造成し、正面と両側面に現況で3.5mの高さの石垣を普請している。また郭3の外面に積まれた石垣は最大高5m、総延長100mにおよぶ小倉城最大のものとある。築城時は斜面に樹木もなく、山麓からも見渡すことができたという。堅固な守りのためであり見せるための石垣でもある。石垣の石材はこの地の周辺で産出する結晶片岩で、平石を水平に積んでいる。これを「布積み」というらしい。
 石垣を見た後北虎口へ向かう。北虎口には北方からの登城路も合流。北虎口から郭1に入る前に北方からの登城路を下ってみた。縄張り図では無名の郭があるのだが、明瞭な痕跡が見られず引き返す。
 北虎口は桝形虎口で石積みもあり、門が構えられていたと推定されている。桝形虎口からさらに坂道を上り郭1に入るにはもう一カ所の虎口が待ち構えている。郭1は本丸と推定されている場所で、目算で80m×40mほどの広さがある。北奥には一段高く石積み盛土されていて、郭1は2段構造となっている。郭1には三カ所の虎口があり、南虎口から郭2へ向かう。郭2は二の丸と想定される郭で、広さも本丸とされる郭1と同程度に見える。
 郭2から郭2の土塁下を通って小倉城で最大とされる大堀切に向かう。この堀切は郭2と郭4を遮断するもので、クランク状の横堀とつながっている。大堀切から郭1の南虎口、郭3へ進む。狭く曲がりくねった通路。随所に侵入者を妨げる工夫が見える。先に杉山城を見学したが、小倉城に来て、本物の山城を見た気分になる。これから菅谷館(城)へ向かう。帰路はタクシーではなく歩く。山の藤は満開だった。のんびりと約一時間の散歩である。(2018年4月20日)
   
   
 
   
   
   
 

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