日本の城ある記(関東の城・菅谷城) 

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 菅谷城  (すがやじょう)

ある
 杉山城、小倉城と山城を見た後だけに、平城を見ると何となく迫力がないように感じる。ところが、そんな思いも三の郭から西の郭に入るまでの事だった。堀の深さと土塁の高さに驚く。菅谷城は菅谷館とも呼ばれているが、この姿はどう見ても館の域を超えている。城郭そのものだ。
 ここに最初に「館」ないしは「城」を築いたのは鎌倉幕府で重要な地位にあった畠山重忠。平安時代から鎌倉初期の関東武士の館といえば、方形の単郭であると思い込んでいたので菅谷館もそうに違いないと考えていたが、予想は全く外れた。もっとも、菅谷館は何度か改修されて、今見る姿は戦国時代末頃に改修されたものらしいのでの、畠山氏の時代は他の館と同じく方形の単郭であったのかもしれない。上記地図上の本郭とされる郭がその当時の館の面影を残しているとされている。畠山氏は坂東八平家の一つである秩父氏の一族。畠山重忠の父・重能は武蔵国男衾郡畠山荘の荘司。重忠も当初は畠山荘内の館に居住していたが、時期は不明であるが(鎌倉幕府成立後の事と思われる)鎌倉街道上道の要衝である菅谷の地に館を建てる。
 治承4年(1180)源頼朝が挙兵したとき父の重能は平家の家人として京都の警護役である大番役についており京都に滞在していた。これが為に重忠は平家側の武将として衣笠城に籠る三浦氏を攻めている。源頼朝は石橋山の合戦で敗れ安房に逃れていたが、千葉氏や上総氏の協力を得て再挙兵。2万騎余りの軍勢を従えて武蔵国に進軍。畠山氏はもともと坂東武士として源氏側の武将と親しく、また姻戚関係もあり頼朝の傘下となる。以後平家追討に戦功をあげ有力御家人として処遇される。しかし頼朝が亡くなり、二代目頼家が謀殺されて弟の実朝が将軍となるが、北条時政が執権として幕府の実権を握る。元久2年(1205)畠山重忠は北条時政の謀略によって討たれる。これ以後、菅谷館は15世紀後半に山内上杉氏によって再興されるまでの間は放置されていたと推測される。山内上杉氏は16世紀中頃まで菅谷館を拠点として使用していたが、天文15年(1546)の河越合戦で山内上杉、扇谷上杉が小田原北条氏に敗れ、これ以後に小田原北条氏が戦国末期まで支配する。現在残る菅谷館(城)は北条氏流の築城技法が随所にみられることから、北条氏支配の時期に大改修が行われたと推定される。
 搦手門跡から入って三の郭から四の郭へ、二の郭から本丸とされる本郭に入る。本郭から南郭を通って都幾川の河原に出る。南郭に戻って二の郭のあずまやでしばし休息。石垣も櫓もない、空堀と土塁の城郭は質実剛健、無骨者の坂東武士の生き様を見るようだ。(2018年4月20日)
   
   
   

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