日本の城ある記(関東の城・石垣山城) 

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 石垣山城  (いしがきやまじょう)

 
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 JR東海道線の早川駅で下車。駅舎を出て国道135号線を小田原方面に向かって100mほど歩き東海道線のガードをくぐる。斜め左の小道を進むと今度は新幹線のガードをくぐる。しばらく道なりに進むと上り坂になり、民家の途切れたあたりから坂道の傾斜がきつくなる。ミカン畑が続く農道辺りからは息切れがするほどのきつい傾斜の坂道。老体には厳しい道だが、それでも振り返れば相模湾が見渡せる。4月初めの穏やかな日和。急がず慌てず一歩一歩踏みしめて登れば気分は爽快、と自分自身に言い聞かせて重い足を運ぶ。手元のガイドブックには早川駅から石垣山城の登城口まで歩いて約50分の道程と記されていたが、私は1時間以上費やして到着。自家用車やバス、タクシーを使えば容易く訪れることができるが、健康を考え寝たきり老人にならないためにと始めた山城巡り。効果のほどは分からないが、自己満足そのことがストレスの解消に少しは役立っているのではと思う。病は気からというから、若い気分でいられることがなにより。
 石垣山城は豊臣秀吉の小田原城攻めの付城として築城されたもの。そう思って訪れたのだが、その規模に驚く。付城の範囲を超えた本格的な城塞である。しかも一夜城と言われるように約80日ほどで完成したという。城が完成してから400年以上の歳月を経て石垣の多くは崩れているが、土塁ではなく石垣を多用した城郭は当時の関東の城には珍しい。関西の進んだ技術や、それを可能とする財力、人力を関東や奥州の武士に見せつけ戦意を消失される効果は大いにあったのではと思う。それに秀吉は20万人にも及ぶ軍勢で小田原城を包囲したという。準備万端で戦に臨む姿勢は、根性や神風だけでは勝ち戦はできないと教えている。
 駐車場から続く遊歩道が立ち木を伐採する工事のため利用できず、崩れた石垣の本来の登城口から城内に入る。歩き難いが、この方が古城の雰囲気があっていい。まずは二の丸に向かう。広々とした芝生の空間は都会地の公園のような雰囲気である。本丸を囲う石垣が崩れたまま放置されているが、これも庭石のようにも見える。
 二の丸から本丸に行く前に井戸曲輪へ向かう。山城に限らず城郭には水の確保は必要不可欠な事項である。それにしてもここに造られた井戸は、これまで見た他の山城とは比べ物にならない規模である。今は僅かに水を湛えているだけだが、おそらく築城当時は湧き水だけでなく雨水も集めて、プールのようであったと想像する。水を蓄えるための堤防の役割の石垣は全く崩れていない。石垣は近江の穴太衆によるものと言われるが、その石積み技術の高さはさすがだ。

 井戸曲輪から展望台に向かう。ここから小田原市街が一望できる。小田原城とは3kmほどの距離しかない。小田原城に籠る北条氏は秀吉の軍勢と対峙するため、城郭だけでなく町屋も取り込んだ総構の城塞を築いた。しかし、ここからは城内の様子を俯瞰できる。また逆に小田原城から石垣山城の姿を見ることは出来る。ここに築城したのは見せるためであり、それには小田原城に引けを取らない重厚な城構えであることが必要であったのだろう。
 本丸下の帯状の曲輪を歩く。北側は切り立った崖地である。遠くから眺めればそれほどの急勾配には見えなかったが、深い谷底からは容易に攻め上がれないだろう。本丸は二の丸よりも広い面積に見える。奥まった場所に小山があるが、ここが天守台で確認はされていないが天守が存在していたとも言われる。
 秀吉は側室の淀殿や千利休を呼び寄せ度々茶会を催したという。本丸、あるいは二の丸に御殿があったのであろうか。四国、九州を平定した秀吉は天下統一の最後の仕上げとして関東、奥州の支配に着手した。小田原城攻めはその端緒であるが、同時に最後の詰でもある。ここに至るまでに周到な工作、準備がなされている。小田原城を囲む秀吉側の軍勢は、そのままこの後の奥州仕置に繋がる。諸大名を引き連れての茶会は秀吉の余裕を見せるのと同時に諸大名に秀吉への忠節を誓わせる儀式でもあったのだろう。
 力攻めでは味方の損害も多大になることを想定して長期戦を覚悟した秀吉だが、小田原城の北条氏は3か月の籠城の末に降伏した。石垣山城の戦のための城としての役割は築城後半年にも満たないが、日本の歴史の重要な転換期を見つめた城郭は、英傑・武将の様々な夢や怨念を静かに今に伝えているようだ。(2018年4月2日)
 
   

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