日本の城ある記(関東の城・衣笠城) 

 関東の城 トップページへ 日本の城ある記 トップページへ 
 衣笠城  (きぬがさじょう)

ある
 浦賀城を訪れた後、京急浦賀駅で乗車し京急横須賀中央駅で下車。バスに乗り約20分、衣笠城址バス停で下車。ここから歩いて約15分で衣笠城に到着すると、その予定でいたが、どうしたことか又も道を間違えてしまった。浦賀城を訪れたときも道を間違えた。地図を持参し、確かめながら歩いたはずだが、迷ってしまった。普段はこんなことはない。何かの祟りかと、間違ったのは自分の所為ではないと転嫁するが、これはきっと老化現象の始まりなのでしょう。ともあれ庭木の手入れをしていた私より少し若い老人に道を聞き、約10分ほどの時間ロスで着くことができた。
 途中までは平たんな道であったが、さすがに山城である。最後は急坂を登坂して大善寺の石段前に着く。浦賀城はこの寺の裏山にある。
 山城の多くは戦国時代に築かれたと言われるが、衣笠城の歴史は平安時代末期に始まり、鎌倉時代で終わっている。康平6年(1063)奥州の前九年の役に源頼義の私兵として参戦した桓武平氏の流れを受ける平大夫為通がその戦功の恩賞として三浦郷を与えられ、三浦姓を名乗って衣笠城を築いたとされる。
 衣笠城が歴史上有名になったのは治承4年(1180)8月、三浦氏一族は源頼朝の挙兵に呼応。しかし頼朝は石橋山の戦で敗退して安房に逃れる。当初は平氏側の武将であった武蔵の畠山重忠が衣笠城を攻撃。畠山の軍勢数千騎に対して三浦勢は300〜500騎程であったようだ。劣勢に三浦氏は衣笠城を脱出して頼朝と合流すべく安房に逃れる。衣笠城は畠山氏の軍勢によって占拠された。9月になり頼朝は千葉氏や上総氏の豪族の支援を受けて再挙兵する。頼朝は大軍を率いて10月に武蔵国に進軍。畠山重忠の他、河越重頼、江戸重長らの秩父勢は頼朝に帰伏する。もともと三浦氏や畠山氏など東国武士は姻戚関係で結ばれていたこともあり、平家打倒を目標に結束することに大きな違いはなかったようだ。鎌倉幕府の成立後衣笠城は再び三浦氏に戻る。三浦氏は幕府内で古参の御家人として重要な地位にあったが、宝治元年(1247)幕府執権北条氏と対立、北条氏側の攻撃を受けて三浦氏は敗退。鎌倉法華寺で一族郎党500人が自害して果てた。衣笠城は以後廃城となった。

 大善寺石段の脇に衣笠城の登城口がある。階段状の坂を登り切ると広い平坦地に出る。衣笠城の縄張り図がないのでここがどのような役割を持った郭なのかわからない。衣笠城が廃城になってから800年ほどの年月を経ている。遺構と言っても当時とは相当に様相が変わっているのかもしれない。それでも平坦地の奥には山城の跡らしい痕跡も見える。山城歩きを始めたばかりの素人の私には判別がつかないが鎌倉武士の夢の跡であることは間違いない。(2018年4月9日)

  ページトップへ 

 
Copyright(C) tenjikuroujin.jp All Rights Reserved.