日本の城ある記(関東の城・浦賀城) 

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 浦賀城  (うらがじょう)

ある
 京急浦賀駅で下車し、浦賀湾の東岸を30分ほど歩けば叶神社に行き当たる。神社の境内に入り、裏側の階段を上れば浦賀城。そう手元のガイドブックに書かれていたが、どこでどう間違ったのか海沿いの道から離れて山側の道に入ってしまった。事前に地図で調べて間違いようのない道だと安心していたのがよくなかったか。それとも春の陽気にさそわれ、気の向くまま歩き続けたのがよくなかったのか。ちっと間違ったようだと気付いた時は浦賀駅から歩き始めて40分ほどたってから。通りかかった私と同年配の男性に浦賀城への道順を尋ねる。「浦賀城、そんな城があるのか」この地に数十年と住んでいるが「浦賀城なんて初めて聞く」と言われてしまった。「叶神社は御存知ですか」「神社は知っている」と言うので一安心。同年輩の男性は親切にも私が間違った場所まで同行してくれた。無事叶神社にたどり着いたが「浦賀城なんて初めて聞く」と言われた言葉が気になる。城があるとされる丘陵地は標高が低い地はいえ山城の部類に入る城。城が廃城になってから数百年は立っている。土だけで築かれた山城は長年の風雪に耐えかねて、登ったところで城跡らしい痕跡は何もないのではと、初めて訪れる城郭への期待が沈む。ともあれ、ここまできたのだからと叶神社の本殿に向かって一礼。急な階段を上る。
 本殿の裏側(西側)にある階段の登り口に勝海舟に関わる碑がある。万延元年(1860)太平洋を横断してアメリカに向かった咸臨丸の船長・勝海舟は、渡航前にこの神社の井戸で水垢離(みずごもり)をして、山頂で断食をしたという。
  階段を登り切ると20m×30mほどの平地に出る。僅かに土塁の痕跡もある。奥まった場所に一段高い土盛もある。平地の周りは樹木で覆われているが、一カ所だけ木を伐採したところがある。そこから東京湾を挟んで対岸の房総半島が見渡せる。この景色が見られれば、仮に城址の痕跡が何もなかったとしても満足。案内板によれば嘉永6年(1853)浦賀沖に現れたぺーり率いるアメリカ海軍の軍船4隻は、この展望場所の下あたりの海域に停泊していたとのこと。戦国時代の城跡見学が予想を超えて幕末から明治に至る日本の動乱期を甦らせてくれる。
 土塁の痕跡をたどって北側に向かうと、虎口(?)の跡らしい土盛も見える。さらにかすかな踏み跡をたどって土手を下ると帯曲輪状の平地もあった。さらに下ると井戸跡もある。また幅3m以上の大きな堀切もある。物見台程度の砦跡とも思っていたが、城としての構えが備わっているように感じた。さらに城跡の痕跡は続いているようだったが、踏み跡も途切れ、斜面の勾配もきつくなったので引き返す。短時間の探索だったが子供のころの冒険心が甦って来た。
 浦賀城は16世紀に小田原北条氏三代目の北条氏康が房総で覇権を広げる里見氏に対抗するために三崎城の支城として築いたといわれる。三浦半島南部一帯はそれよりも古い12世紀初頭には三浦氏が支配していた地域。おそらく三浦氏は強力な三浦水軍を統率しており、鎌倉幕府成立以前からこの地に物見台程度の軍事設備を築いていたのではないか。浦賀城およびその前段階の軍事施設が果たした事例についての伝承、記録を私は知りえないが、鎌倉で武士政権が誕生したことに何らかの働きがあったのではと想像する。そんな空想をめぐらしながら浦賀水道を航行する船舶を眺めていると、荒くれ男や武将たちの姿が浮かんでくる。(2018年4月9日) 

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