城ある記
津久井湖は城山ダムによって相模川を堰き止めてできたダム湖。”城山”の名前に、このあたりに砦跡か山城跡があるのではと思っていたが、津久井城の名を知ったの実は最近になってからだ。城歩きはもう何年も前から行っているが、山城に興味を持ったのはごく最近のこと。ガイドブックを頼りに素人にも簡単に入ることができ、比較的歩きやすい近辺の山城を探して、その一つが津久井城だった。
JRの橋本駅からバスに揺られて40分余り、橋本駅付近の渋滞は相変わらず。しかも平日の朝であり、通学の学生でバスは超満員。ラッシュ時をも顧みずバスに乗り込む老人は厄介者扱いされる。小さくなって座席にうつむいて座っていた。 津久井湖観光センター前のバス停で下車。すぐに桜の小道と名付けられた遊歩道を歩く。津久井城を含む一帯は県立公園として整備されている。
津久井城は西の甲斐国、東の武蔵国の中間に位置し交通の要衝にある。また今はダム湖となっているが、城の眼下には相模川が流れ、水運の重要なルート上でもあった。この地に最初に城を築いたのは鎌倉時代、三浦党の筑井氏とされるが、確証はないようだ。城としての機能が強化、整備されるのは戦国時代になってから。永正13年(1516)三浦氏を滅ぼした小田原北条氏が相模国を支配すると、甲斐の武田氏の相模侵攻に備えるため北条氏の家臣・内藤氏を城主として城を改修する。
天正18年(1590)の秀吉による小田原征伐の際、津久井城の城主であった内藤景豊は小田原城に詰め、また津久井城の精鋭部隊も小田原城に移動していたようだ。津久井城に残ったのは老兵や徴用した農民兵が中心であったと思われる。城は徳川家康の家臣・平岩親吉に攻撃されるが、大した戦闘もなく開城したようだ。家康が関東に移封されるとこの一帯は徳川の直轄地となり、津久井城は廃城となる。 |