日本の城ある記(関東の城・河村城) 

 関東の城 トップページへ 日本の城ある記 トップページへ 
 河村城  (かわむらじょう)

   
ある
 去年の3月30日に山北駅を訪れたが、その時は駅前から続く桜並木は満開だった。今年はそれより3週間早く訪れた。今回は桜を見るためではなく、観光客が少ないこの時期を選んで、山北駅からすぐ近くの山城を見学するのが目的。目指す河村城の本丸(本城郭)は駅から徒歩で30〜40分の距離にある。

 改札を出て、跨線橋を渡り反対側の駅前広場に。ここには丹那トンネルが開通する前、御殿場線が東海道線であった時代に活躍した(と思われる)蒸気機関車が展示されている。また「さくらの湯」という温泉施設もある。線路に沿って少し進み案内板に従って左折。民家の間の細い路地を通って国道246号線下の地下道を潜り盛翁寺の参道へ。
 河村城へは寺の左手を進む。階段状の道を登り切ると茶臼郭の下に出る。

 河村城は平安時代の末期に源氏・平家と並ぶ武家の棟梁として名高い藤原秀郷を祖とする河村秀高によって築かれたのが最初とされる。南北朝の動乱期に河村氏は新田氏と協力して南朝方に与し、新田義興、脇屋義治らの南朝方兵力約4千人と河村城に立て籠もり、足利方の攻撃を約2年間凌いだという。しかし最後には落城となり、河村氏は討ち死にし滅亡する。その後は関東管領、鎌倉公方の勢力争いに翻弄されながら城主が度々入れ替わり、戦国時代になると小田原北条氏の支配下に組み込まれてゆく。現在残る障子堀(畝堀)の遺構などはこの時代に河村城が大改修れたことを物語っている。天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原征伐により河村城は落城。以後廃城となる。 茶臼郭に登ると小郭を間にして本城郭が一段高い位置に見える。おそらくこの尾根(山)の最高所に築かれているのだろう。茶臼郭、小郭、本城郭は幅の広い尾根筋頂部を平坦に整地し、それぞれ深く削られた堀切(障子堀)によって区切られている。本城郭は東西に60m、南北に100mもの広大な面積を持つ。また本城郭から振り返ってみると直線的に並ぶ三つの郭が見せる造形美は城郭の持つ厳しさと同時に人工物を感じさせない自然の優しさを見せている。石垣の城では感じられない、土の城の魅力でもある。
   
 本城郭から一段下がって馬出郭へ、更に本城郭の西側に並行する尾根筋に配置された西郭、北郭、北郭張出へ。それぞれの郭は現在は樹林で覆われているので広さが実感できないが、尾根の形状からかなりの広がりが想像される。
 北郭からは深い谷を隔てて茶臼郭、小郭が樹林越しに見える。頂上部の木を伐採することが出来ればダイナミックな城郭の姿がはっきりと現れるに違いないと思うが、それは無理な要求か。
 北郭張り出しから更に散策路は続いているようだったが、ここで引き返す。途中、本城郭からは富士の姿ががほんの少し(片肌程度)しか見えなかったが、ここからは山頂部分が全て見える程度に眺められた。白いベールをかぶった富士の姿はどこで目にしても美しい。

 
   
 本城郭に戻り東尾根へ。河村城の中では比較的狭い尾根を断ち切り、そこに木橋を通している。木橋を渡ると蔵郭と表示のある郭。蔵郭とあるのだろうから兵糧米や武器蔵があったのだろう。蔵郭とその先の近藤郭の間も深い堀切がある。更にその先にも堀切で郭が区切られている。大庭郭、多地屋敷と郭が続いているが、廓の名はその郭を守備する武将の名前から付けられたものなのだろうか、説明版はなかった。いずれも広大な面積の郭である。一見すれば牧場のようにも見える。
 郭の先は大手口であったようだが、それらしき遺構はなかった。それにしても、下から見上げた時には頂上部にこれだけ大きな遺構が残っているとは想像できなかった。東尾根はおそらく耕作地として利用され、かなり現代人の手が加えられたのではと思われるが、本城郭を含む尾根上の保存状態は素晴らしい。再び戻って、もう一度河村城の姿を堪能してから帰ることにする。(2019年3月9日)

  ページトップへ 

 
Copyright(C) tenjikuroujin.jp All Rights Reserved.