日本の城ある記(関東の城・土肥城) 

 関東の城 トップページへ 日本の城ある記 トップページへ 
 土肥城 (どいじょう) 

ある
 去年の12月中頃に関西方面のお城探索として主に山城をいくつか訪問したが、体調が良くなかったこともありそれ以来出歩いていない。ようやく暖かさを感じるようになったので、また出掛ける気持ちが高まってきた。思い立つとじっとしていられない性格は年を重ねても変わりようがない。トレーニングもかねて取り敢えず近場のお城を訪ねようといろいろとガイドブックを開いて見つけたのが湯河原にある城山。ここには源頼朝挙兵に因縁のある土肥城があったという。湯河原なら東海道線を利用して1時間足らずの場所である。余裕があれば湯河原の梅林に寄って梅の花の鑑賞もと欲張る。
 湯河原駅前のバス乗り場には梅林のある幕張公園行きのバスに乗り込む観光客が列を作っている。臨時便が多発されているが、順番待ちの乗客の数が減ることはない。幕張公園から城山に向かうハイキングコースも整備されているが、結構距離があるようだし、梅林見物の観光客と満員バスに乗るのは避けたい。箱根行きのバスに乗り途中の「しとどの窟」で下車することにする。ここまでバスで登れば標高600mほどの城山とそれほどの高低差もない。
 バスを降り、まずは石橋山合戦で敗れた源頼朝が隠れて難を遁れたというしとどの窟へ向かう。隧道を抜け、つづら折りの急坂を谷底近くまで下り、巨石の脇を抜けると岩屋が現れる。中には三十三体の仏像が安置されているらしいが気味が悪いので数える気がしない。岩屋は大きく口を開いた状態だが、これは地震で崩れたためでおそらく頼朝が隠れた当時は洞窟のような姿であったのだろう。崖の上からは水が滴り落ちている。たった一人で長くこの場に佇むのは、昼間とは言え良い気分ではない。早々に立ち去ることにする。隧道まで戻り、城山への遊歩道を歩く。城山山頂近くは少し急坂になり、岩も露出しているが、それ以外は何の問題もなく二十分も歩けば土肥城があった城山山頂に着く。少しあっけない気分である。やはり山城を実感するには麓から登るべきか。
土肥城を築いたのは相模国の有力豪族中村氏の一族で土肥郷(現在の湯河原町、真鶴町)を本拠としていた土肥実平(どいさねひら)という。居館は湯河原駅近くの成願寺辺りにあり、土肥城は詰の城であったと思われる。
 山頂部に主郭を置き、東、北、南に曲輪を配しているとされるが、私にはその跡がよく分からなかった。湯河原駅に下る途中、曲輪の跡らしき平坦な場所が数カ所あったが、公園整備のためのスペースであるのか、曲輪の跡なのか、判断が難しい。素人には縄張図がないと全てを見落としてしまう。この城に立て籠もって敵と対峙したという記録もないようだし、鎌倉時代中頃には城の機能は維持されていなかったのではないかと思われるので自然風化してもおかしくはない。もっとも、山城である。ここに城が存在したという事実だけで充分である。後は訪問者の想像力の問題だ。
 土肥城の城主、土肥実平は治承4年(1180)頼朝が挙兵すると一族を従えて頼朝のもとに参じる。8月17日頼朝は伊豆国の知行国主目代の山木兼隆を討つ。しかし頼朝が頼りにしていた三浦半島を本拠とする三浦一族の参陣が遅れ、頼朝の現有勢力だけでは伊豆に留まることが不安であり、このため土肥実平の本拠地土肥郷まで進出。8月23日石橋山に陣を構えて三浦一族の参陣を待つが三浦氏は大雨により酒匂川が渡れず足止めされてしまう。頼朝の軍勢は300騎であったという。これに対し大庭景親らの平家側は3000騎であった。多勢に無勢で頼朝は敗走。大庭軍は追撃の手を緩めず、頼朝は土肥実平の手引きで「ししどの窟」に隠れる。その後に頼朝は真鶴から船で安房国に逃れて千葉氏、上総氏ら東国武士の支援を受けて再挙兵。兵士討伐を果たす。
 土肥実平は平家討伐に数々の戦功をあげ、頼朝の信任も厚く寿永4年(1185)には長門・周防の惣追捕使として調布に居館を構える。しかし建久2年(1191)頃から歴史資料から姿を消す。義経と懇意であったことから政治的に失脚したとの説があるようだ。
 城山からの下り坂。車道を延々と下るのだが勾配がきつい。膝が痛み出さないかと恐る恐る下る(2019年3月2日)

  ページトップへ 

 
Copyright(C) tenjikuroujin.jp All Rights Reserved.