訪問記
この地の築城で記録のあるもので最も古いものは鎌倉時代初期に佐々木源氏の一族で加地庄の地頭となった者が新発田氏を名乗り築城したものとされる。以来国人領主としての新発田氏の居城となるが、戦国時代となり上杉謙信の勢力拡大により、その家臣団に組み込まれる。謙信の死後景勝と景虎とが後継者争いをした「御館の乱」では新発田氏は景勝側についてその勝利に貢献する。しかし恩賞が与えられなかったことで一族に不満があったという。その不満は新発田重家が当主となった時に現れる。新発田重家は 織田信長と通じ景勝と対立する。しかし本能寺で信長が討たれ、秀吉の時代となると越後平定を秀吉から命じられた景勝によって討ちとられ、新発田氏は滅亡する。
慶長2年(1597)上杉景勝は越後から会津120万石へ転封となり、これに伴い慶長3年(1598)加賀大聖寺から溝口秀勝が新発田城に入る。
溝口秀勝は尾張国中島郡西溝口村で生まれ、当初は丹羽長秀に仕えたが信長に才能を見いだされて天正9年(1581)信長の家臣として若狭高浜城の城主となる。本能寺の変後は秀吉側に属し、天正11年(1583)には加賀大聖寺城4万4千石の城主となっている。
新発田に入った溝口秀勝は新発田城の支城の一つである五十公野(いじみの)城に仮住まいし、新発田城の大改修に着手する。同時に城下町を整備する。本丸を内堀で囲み、それを二の丸が取り囲み、南側に三の丸を設けて二の丸三の丸に重臣の屋敷を置いた。本丸には辰巳櫓、鉄砲櫓、天守代用の御三階櫓が建てられた。 ただし城の完成は承応三年(1654)の三代藩主の時代になってから。
現在本丸表門と、二の丸隅櫓が本丸鉄砲櫓の跡に移築されて残っている。また特異な屋根の形状をして三匹の鯱があげられている本丸代用の御三階櫓と辰巳櫓が復元されている。(2015年5月24日) |