日本の城ある記(北陸の城・長岡城)

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 長岡城  (ながおかじょう)

訪問記
 
高速道路の土日祝日1000円乗り放題が実施された最初のゴールデンウイーク。未明に横浜を出発。横浜高速、首都高、関越に入り、新潟までほとんど休息なしで飛ばす。午前中新潟に滞在して、寺泊を経て夕刻に長岡に到着。長岡市内に宿をとった。宿に入る前にJR長岡駅前に寄り、ここがかつて長岡城のあった場所であることを知る。とはいえ、辺りを見渡しても長岡藩6万4千石の居城は跡かたもない。何かないかと少し付近を歩いてみたが、駅近くの小公園にに長岡城址と記した小さな碑が存在するだけ。堀跡も城下町の痕跡さえ見いだせなかった。
 実のところ今回の小旅行も、高速料金が1000円になったことだけを頼りに出かけたもので、事前の計画などないに等しく、何時もの通りの行き当たりばったりの旅行。長岡駅に寄ったのも城跡見物が目的ではなかった。大昔のことになってしまったが、私が中学生だった時、当時流行っていた文通で、長岡に住んでいた同年代の女子中学生と手紙のやり取りをしたことがあった。その女生徒から、長岡駅前の噴水をバックに写した写真が送られてきた。文通は、私のずぼらな性格が災いして(まともに返信をしなかった)結局2,3回のやり取りで終わってしまったが、送られてきた写真だけはいつまでも記憶に残っていた。何時か長岡を訪ねることがあったら駅前の噴水を見てみたいと、そう思っていたがこれまでその機会がなかった。そんな事情で今回初めて訪ねた次第。残念ながら記憶に残る噴水を見つけることはできなかった。その代わりに、この場所がかつての長岡城の跡だと知る。
 宿の近くの公園に、これまた偶然に、長岡城にかつて建っていたという三階櫓を模したお城があった。丘の上に、むしろ長岡の駅前よりも城跡にふさわしい場所に立っていたので、ここにも昔お城があったと錯覚してしまう。宿の朝食の前の早朝、公園となったいるお城を散策した。近所の住民が散歩やジョギングを楽しんでいる。お城はそんな風景に何の違和感もなく溶け込んでいた。 (2009年5月4日)
   
 戦国時代、この地は越後守護代長尾氏(後の上杉氏)の一族が支配していた。慶長3(1598)に上杉家が陸奥会津へ移封すると、外様で関ヶ原の戦で東軍に加わった堀秀治の弟、堀親良が現在の長岡市西蔵王の蔵王堂城に入城して治めた。しかし、慶長11(1606)親良を継いだ甥の鶴千代が早世したため蔵王堂藩は断絶。宗家である坂戸藩の堀直寄に編入された。
慶長15(1610)宗家がお家騒動の為に除封されると、徳川家康の六男松平忠輝の高田藩の属領となった。その徳川忠輝も大坂の役の不始末を理由から元和2(1616)に除籍されると、6年前のお家騒動の一方の当事者であった堀直寄が8万石で入封。 
 
最初は蔵王堂を居城としたが、蔵王堂が水害に弱いことから、長岡に築城し、長岡藩が成立した。  1618(元和4)城の完成を見ることなく堀直寄は越後村上へ移封される。かわって譜代大名の牧野忠成が入封。牧野忠成は外様大名の多い越後中央部の抑えの役割を任され、元和6(1620) には1万石を加増される。
 城はたびたび災害に遭い、2度の大火、5度の水害、一度の震災で大きな損害を受けた。
 幕末、長岡藩は河合継之助の指揮のもと奥羽越列藩同盟に加わり、官軍との徹底抗戦をくり広げた。しかしながら隣接する高田藩、与板藩は官軍に城を開放して長岡藩攻撃の拠点となり、当初は奥羽越列藩同盟に加わっていた新発田藩も官軍側に就いたことから、長岡藩は敗北。荒廃した長岡藩に対して隣の三根山藩は米100俵を送ったが、長岡藩は藩士に分与せず、将来の人材育成のための学校建設に使ったという逸話が残っている。 
 
  

長岡藩 歴代藩主
 家紋  入封時期  禄高  入封時の藩主  
 元和2
1616
8万石  堀 直奇(外様)越後蔵王より入封 元和3(1617)築城に着手したが、完成せず元和4(1618)に転封になる 
元和4
1618 
 6万4千石 牧野忠(譜代)越後長嶺より入封。以後幕末まで牧野氏が藩主を務める。 慶応4(1868)新政府軍によって落城。一旦奪い返すが、城に火をつけ退却。 

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