日本の城ある記(北陸の城・春日山城)

 北陸の城 トップページへ 日本の城ある記 トップページへ 
 春日山城  (かすがやまじょう)


訪問記
 2年前の5月。土日祭日の高速道路料金上限1000円の制度がスタートして初めてのゴールデンウイークに新潟を旅行し、その途中で上越市を訪れた。その時は春日山城でなく高田城へ行った。 どうやらこの高速道路料金制度は今月の19日で終了するようだ。そうならと急遽出掛けることにしたのだが、何時もの通り、いやそれ以上の出たとこ勝負の無計画ではカミさんが承諾しない。しかも、旅行の目的がお城見物だけでは尚更である。つい先だって、東北地方のお城見物の小旅行をしたばかりでもある。しかたなく今回は私一人で出かけることにした。取りあえず、日本海側の上越市まで車を飛ばし、後は太平洋側に向かって日本を横断することにした。帰途、途中途中のお城を見学して疲れたらどこかで宿をとればいいとの思いだ。一応、宿をとる場所は長野市あたりか諏訪湖の周辺と考えてはいる。
 一人となると行動時間は自分一人で決められる。実に好都合である。カミさんの都合に関係なく早朝の、いや、ほとんど真夜中の午前2時に車をスタートさせる。歳をとると朝が早いというが、実のところ久しぶりの一人旅に興奮して寝付けなかっただけだ。途中で眠くなればどこかで仮眠すればいいと、気楽なものである。
 途中のサービスエリアでは私のような考えで行動をする高齢者(ばかりではないようだが)も結構いるのか駐車場が満杯のところもあった。サービスエリアは予想以上に混雑していたが道路上は意外と空いていた。最初の目的地の春日山城へは何のトラブルもなく午前6時30分に着いてしまった。横浜を出て4時間と30分である。眠気は全く感じなく休息は取ったが仮眠をとることはなかった。
 春日山城を訪れたのは今回で2度目である。最初に訪れたのはもう記憶が薄れてしまうほど昔だ。今回訪ねて、昔のイメージとは全く違ったものに感じた。春日山神社の横に武田信玄の像があるが、あれは昔は無かったように思う。それに山頂である本丸へ向かう道はよく整備されている。道標も親切丁寧である。一昨年のHNK大河ドラマで主人公を務めた直江兼続のお蔭なのであろう。もっとも、私の記憶は春日山神社で途切れているので、ひょっとしたら前に訪ねた時は本丸まで登らなかったのかもしれない。
 春日山城は上杉謙信こと長尾景虎の居城として知られる。例の日本百名城にも難攻不落の本格的な山城として、その一つに数えられている。しかし山城というのは素人目にはその全体像を把握することは結構難しい。特に春日山城では石垣は用いられず、自然の地形を生かした土塁が中心である。堀も空堀である。何重にもめぐらされた曲輪の跡は樹木で覆われて当時の規模がイメージできない。帯曲輪に至っては、単なる通路のようにしか見えない。目を閉じて昔の姿をイメージしようとするのだが、都合の悪いことに千葉真一主演の映画・戦国自衛隊のシーンに登場する春日山城(だろうと思う)が浮かんできてしまって話にならない。とはいえ、本丸やそれに隣接すり天守台の跡に立てば気宇壮大な夢も浮かんでくる。6月初めの、早朝の冷気を感じる空気を胸一杯に吸い込み、遠くに白銀を頂く山並みを見て、景虎や兼続は何を夢見ていたのだろうと思いに耽る。(2011年6月4日)
   
 最初にここに城郭が築いたのは南北朝時代(1336〜1392)越後の守護である上杉氏で、越後府中の詰めの城として築いたといわれているが、時期、その規模も定かではない。永正4年(1507)に守護代長尾為景が守護上杉定実を追放して上杉一族の上杉房能を新守護として擁立。このとき、長尾為景は春日山に入城し城主となる。
 春日山城は別名「鉢ケ峰城」という。もともと春日山の名称は奈良の春日大社からの分霊を祀る春日神社を天徳2年(958)に守護である上杉氏が創建したことに由来するとされるが、確かなことはわかっていない。
 ともあれ、春日山城は長尾為景、景虎親子によって本格的に整備強化され、戦国時代を通して有数の難攻不落の城塞となった。
 長尾景虎は為景の末子であり、しかも為景が62歳の時の子であるという。それが後継ぎとなったのは戦国時代の数奇な運命によるところであろうが、景虎は幼い時から気性の激しい性格であり、戦上手で自らの運命を自ら切り開いていった。
  観音寺潮五郎の「天と地と」は映画にもテレビドラマにもなり、まさに小説が史実のごとく扱われている。もっとも、史実がはっきりしないのであれば小説を史実としても不都合はない。武田信玄と対比させて人間上杉謙信を小説によって知る。長尾から上杉に名前が変わる理由を知るに付け、景虎の人間味に魅力を感じる。
上杉謙信の死後、春日山城の跡目をめぐり、その二人の子(養子)が争う。養子のうち景虎は北条氏康の七男。もう一方の景勝は謙信の姉と長尾政景の間に生まれた子。これが世にいう「御館の乱」である。上杉謙信にはもう一人能登の畠山氏から人質として取った政繁が養子でいたが、これは上杉の一族で上条上杉家を継いでいたので争いには加わっていない。結局いち早く行動を起こした景勝が謙信の名を継いだ景虎を滅ぼし勝利する。この景勝も秀吉の小田原征伐にともなう仕置きで慶長3年(1598)会津へ転封となる。これによって戦国時代に生きた上杉謙信の夢も、春日山城の栄華も露と消えることになる。

  ページトップへ 

 
Copyright(C) tenjikuroujin.jp All Rights Reserved.