日本の城ある記(北陸の城・富山城)

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 富山城  (とやまじょう)

訪問記
 富山の地は仕事で2,3度訪れたことがあるが、その時は富山城を見学する時間的な余裕がなかった。今から40年以上前になるが、学生の頃に富山城近くの富山県警が管理する施設(県警が管轄する共済組合が所有する施設だったと思う)をクラブ活動の合宿の場所にしたことがある。1週間ほど過ごしたが、その時の富山城の印象としてはお堀しか浮かんでこない。私の記憶ではお堀には噴水があった。それは消防のホースから出る水柱のように高さ20mほど舞い上がる一条の噴水であった。夏の日の夕暮、夕涼みを兼ねて多くのカップルがお堀の周りに佇んでいたことを覚えている。しかし、今回富山城を訪れて、そのお堀がどこにあったのか、そして宿舎にした場所がどこであったのか、全く分からなくなってしまった。お城端の街区は綺麗に整備されて近代的なビルが立ち並んでいる。城跡には40年前の記憶にはまったく登場しない城郭もある。記憶通りのお堀ではないが、お堀は存在する。しかし噴水らしきものはない。40年もたてば変るのは当然だが、何だか私の記憶が幻であったのかと、少々淋しくそして混乱する。富山城址にある模擬天守は昭和29年(1954)に建築されたそうなので、40年前であっても堀端に立てば必ず目にしたはずだが、記憶にないのは噴水に見とれていたか、カップルの姿に気を取られていたか、そのどちらかなのだろう。どちらにせよ、青春時代の記憶を呼び起こすつもりが、その記憶を否定されたような気分になる。
 青春時代の思い出はともかくとして、富山城を改めて記憶に残すために模擬天守に入ることにする。昭和29年に建てられた模擬天守は最近改装されたようで、建築時にはおそらくなかったエレベータも設置され、空調も完備した資料館として甦っている。現在本丸跡地を発掘調査中で、平成26年を目途に枡形門も復元されるようだ。富山藩は加賀藩の支藩とはいえ10万石を領する大大名である。その居城であった富山城が整備される日を期待したい。(2011年8月29日)
 
 富山城は北陸街道と飛騨街道が交わる交通の要にある。天正12年(1543)頃、越中西部を支配地とした守護代・神保長職が越中東部へ進出するため神通川東岸の安住郷に築城したのが最初といわれる。その当時は富山城ではなく安住の館と呼ばれていた。
 天正10年(1582)織田信長の家臣・佐々成政が入城して大規模な改修を行う。当時富山城のあたりを大きく蛇行していた神通川を堀の一部に取り込み、水に浮いたように見えたことから「浮城」とも称された。本能寺の変後の天正13年(1585)秀吉と離反した佐々成政は秀吉が自ら引率する10万の大軍に囲まれて降伏することになる。この時、富山城は破却される。
 天正15年(1587)加賀の前田氏が越中を領有し、その後に前田利長は富山城を大修復して自らの隠居城とした。 
 寛永16年(1639)加賀藩二代目藩主前田利常の次男・利次は10万石を分与されて富山藩を立藩。寛永17年(1640)富山城に入城。万治4年(1661)に富山城は大修復され、城下町も整備された。
 縄張りはほぼ方形の本丸の南に二の丸、東西に出丸を配置し、それら三つの曲輪を三の丸が取り囲む。当初は天守が築かれる計画であったとされるが、結局は築かれなかったようだ。櫓は3基建てられる計画だったが実際に何基建てられたか資料的な検証はない。10万石といえども藩の財政状態はかなり悪かったようだ。江戸時代を通して富山城の石垣は主要な門の廻りだけで、ほとんどが土塁だったとされる。
 明治4年(1871)の廃藩置県により廃城となって建物はすべて払い下げられ、解体された。昭和になり石垣が築かれ、模擬天守も建てられているが、当時の様相とは異なっているようだ。
 

  富山藩  歴代藩主
家紋  入封時期 禄高  入封時藩主   
寛永16年
(1639) 
10万石  前田利次(外様・加賀藩主の次男)10万石を分与されて立藩。   

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