日本の城ある記(北陸の城・高岡城)

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 高岡城  (たかおかじょう

訪問記
 2泊3日の能登旅行。今年の3月に金沢まで延伸となった北陸新幹線に初めて乗車。高岡城と能登の七尾城を初日に訪れる予定だったが3日のあいだ生憎の雨模様。高岡で借りたレンタカーで能登半島を半周したが山城の七尾城の訪問は諦め、最終日に高岡から帰りの新幹線に乗り込む僅かな時間に高岡城を訪れた。ちょうど雨は止んでいたが、いつ降り出すか不安な空模様。
 高岡城は初代の加賀藩主前田利長の隠居城として慶長14年(1609)に築城が開始された。利長は当初富山に城を築いて隠居城としたがこれが慶長14年に焼失。一時的に魚津城に移って当時は関野と呼ばれていた地を高岡に改名して築城を指揮し、未完成であったが同年中に高岡城に入城した。しかし利長は慶長19年(1614)に死去。隠居城としての役割を終える。また翌年の元和元年(1615)に一国一城令が発布されて廃城となる。実際の廃城は寛永15年(1638)との説もある。
 城の縄張りは加賀藩に客将として迎えられていた高山右近との説があるが否定する意見もある。梯郭式平城で、本丸、二の丸、三の丸、明丸、鍛冶丸の5郭に加え小竹藪と梅林(築城当時の名称は不明)も実質的に郭の役割をもっていたという。本丸の北西には現在市街地化しているが築城当時は広大な沼地があり天然の防御策としていた。隠居城とはいえ実戦向きに造られた堅固な城である。現在は古城公園として市民の憩いの場となっている城跡で、訪れた日はちょうど紅葉した木々が城跡を埋め尽くしていた。一見すれば当初から公園として造成するつもりであったのかと誤解しそうな佇まいであるが、よくよく観察すれば戦国時代を生き抜いた武将が造った城であることを思い知らされる。
 それにしても廃城になった城が当時の縄張りと同じような状態で残っていることに驚く。江戸時代の建物類は全て撤去されているが、濠や土塁はほほ当時のままだという。現代になって公園の役割を維持するための建物類は建築されたが、それも気に障るほどのものではなく城跡を保護しようとする地元の意志が伝わってくる。
 加賀藩は廃城後の高岡城に米蔵、塩蔵、火薬蔵を置き、城としての役割を維持していたという。また高岡には利長の菩提を弔う瑞龍寺や周囲を濠で囲んだ広大な利長の墓所も作られた。徳川政権になっって戦乱の世は終わったとはいえ、いざという時の一戦に備える外様大名の気概を感じる。(2015年11月10日)

瑞龍寺(写真は2005年4月17日撮影)

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