日本の城ある記(北陸の城・金沢城)

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 金沢城  (かなざわじょう)

訪問記
 30年ほど前に金沢を訪れ、やはり訪ねた場所は兼六園だった。その時は金沢城を訪ねた記憶がない。いや、兼六園も金沢城の一部であり城内の御殿に付属する庭園と思っていた。岡山城の後楽園は庭園であるが実質的には城郭の副次的役割を持っているとされるが、兼六園は純粋に庭園としての役割であるようだ。
 30年前兼六園を訪ねた時、石川門の前で写真を写したと同行のカミさんは言うが、私には全く記憶にない。石川門も今回初めて見る思いだ。金沢城は今、修復作業が進行している状況である。平成13年に二の丸菱櫓、50間長屋、橋爪門、続櫓が復元され、さらに発掘調査が行われて順次城郭が復元整備される予定とのこと。私が訪ねた30年前には石川門があった程度であるから、城跡に立ち入っても城としての印象がしなかったのかもしれない。決して老化現象で当時の記憶が消え失せたわけではない。
 訪問した日は国の重要文化財に指定されている石川門の塀の部分が保全作業のために覆いが掛けられていて全体を写真に収めることができず残念。それでも100万石の大大名の威厳が伝わってくる。とはいえ、白いナマコ壁に唐風の出窓。これが金沢城の特徴であるらしいが、どこか異国の城郭を見る思いもする。荒城の月のイメージが日本の城郭であるなら、それとはかけ離れた風景だ。復元された菱櫓、橋爪門、五十間長屋を見て、これも日本の城郭の一つだと、その風景に慣れるまでには少々の時間を要した。築城に際して前田利家はキリシタン大名として名高い高山右近を招いて手伝いをさせたといわれているので、その影響なのだろうか。派手好みの秀吉の影響を前田利家が引き継いだ結果なのだろうか。それとも巷でうわさされているように、徳川家に憚って軍事色を極力抑えるためのカモフラージュであったのか。
 明治維新後金沢城には陸軍の連隊司令部が置かれ、戦後には金沢大学のキャンパスとして使用された。その所為であろうか、城内がなんとなく殺風景な気がする。百万石の藩主の居城があまりにも広大で、現代人が持て余しているようにも感じる。(2011年8月29日)
 
 金沢城は一向宗(本願寺)の拠点として天正15年(1546)に空堀や石垣、柵で防護した城造りの寺院”尾山御坊(金沢御堂)”が建立されたことに始まる。天正8年(1580) 織田信長の命を受けた佐久間盛政が尾山御坊を攻略し、金沢城と改称し、自らの居城とした。天正11年(1583)佐久間盛政は賤ヶ岳の戦で秀吉に滅ぼされ、この戦で功を挙げた前田利家が新たな城主となった。 
 天正14年(1586)に5重の天守が築造されたとされるが、天正15年、伴天連追放令で除封されたキリシタン大名高山右近を前田利家が招へいして金沢城の大改修を行う。近世城郭の体裁がこの時に整ったとされる。さらに文禄元年(1592)利家の子・利長が改造に着手し、曲輪や堀の拡張を行った。
 天守は慶長7年(1602)に落雷によって焼失。代わりに三階櫓が建造されたが、以後天守は再建されていない。天守の姿については正確な記録がなく不明である。金沢城の特徴は鉛瓦やナマコ壁、唐風出窓、二重二階の多門櫓にある。全体的に白い色彩に仕上がり百万石の居城に相応しい格調の高さを見せている。
 寛永8年(1631)城下の火災で本丸御殿が類焼。さらに宝暦9年(1759)城下が大火災に見舞われ、城内の建物が全焼する。これ以後城の機能が完全に二の丸に移る。現在に残る石川門は天明8年(1788)に完成した。明治になり陸軍の連隊司令部が置かれ、明治14年(18881)の火災により、石川門、三十間長屋、鶴丸倉庫を残して建物が焼失した。
 平成13年(2001)菱櫓、五十間長屋、橋爪門、続櫓が復元される。これは文化6年(1809)に再建された様式を、当時の建築工法で再建したもの。明治以降の木造城郭としては全国最大の規模である。

兼六園


  金沢藩  歴代藩主
家紋  入封時期 禄高  入封時藩主   
慶長5年
(1600) 
120万石  前田利家(外様)   

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