日本の城ある記(北陸の城・福井城)

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 福井城  (ふくいじょう)

訪問記
 日本全国、これまでに都道府県庁の所在地は全て訪れたと思っていたが、福井県の県庁所在地である福井市を訪れたのは今回が初めて。もっとも鉄道あるいは車でこの地を通過したことは何度もある。何度もあるが特段この地に用があったことはなく、さしたる観光地はないと思っていたので一度も足を踏み入れ歩いたことはなかった。今回は近頃天空の城の一つとしてにわかに脚光を浴び始めた越前大野の大野城と朝倉氏の一条谷の遺構を訪ねるために福井に宿を取り、そのついでに福井城を訪れることにした。若狭の小浜城を訪ねた後の午後4時頃に福井市のJR福井駅に降り立つ。
 地方の経済は疲弊しているとよく耳にするが、福井駅はずいぶん立派な駅舎である。駅前には高層ビルも建設中である。どうやら北陸新幹線の延伸を予定しての工事のようだ。もっとも事情はよく知らないが北陸新幹線の延伸工事の完了はそのルートも含めてはっきりしていないようだ。駅前から続く商店街は立派に整備されているが人の姿はまばらである。渋谷新宿の人混みを見慣れた所為かもしれないが、真新しい立派な街路がさみしく感じる。地方経済が活性化することを祈るばかりだと、そんなことには関わりのない余生を送るだけの我が身ではあるが少し心配になる。
 福井城址は福井駅から歩いてわずかな距離にある。戦国武将柴田勝家の北ノ庄を基礎とし、江戸時代になってからは徳川家の家門が代々の城主であった福井城は、その築城当時は広大な規模を誇っていたようであるが、現在は本丸の石垣の遺構が残るだけ。しかもその本丸跡には県の庁舎が建っている。事前に調べた知識ではあまり興味の湧かない城郭見学と思っていた。訪れて、確かに事前に感じた通りの城跡との印象もあるが、ゆっくりと眺めれば、それなりの趣も感じられる。県庁舎の陰にひっそりと佇む天守台の遺構が、過ぎた歴史の栄華を懐かしみ耐え忍ぶように見える。城跡を見て人の一生と同じような感慨を持つのは年老いた証拠か。
 福井城址の遺構の一つに「福の井」がある。城内に掘られた井戸の名前である。福井の名はこの井戸に因んで寛永元年(1624)に越後高田から入封した松平忠昌によって名付けられたという。したがってそれ以前は”北ノ庄藩”或いは”越前藩” と呼称されたようだ。もっとも今でも福井藩とは言わず越前藩と呼ぶ人もいるようだ。
 福井城の基礎となった柴田勝家が築いた「北ノ庄城」の中心部は現在残る福井城本丸から西方に少し離れた場所にある。結城秀康が築いた福井城に引けを取らない壮大な城郭であったようだ。福井城址を見た後その遺構も訪ねる予定であったが、ちょっと体調が思わしくない。今日は早めに宿に入ることにする。
(2015年7月29日) 
 福井城の歴史を語る前に、その基礎となった柴田勝家が築いた北庄城(北ノ庄城)」に触れる必要がある。徳川政権になってからの福井城での事件、いわゆる”忠直卿乱行”も勝家の怨念(徳川家に対する怨念は筋違いではあるが)を感じぜざるを得ない思いがする。武骨者の戦国武将の哀れを思う。
 柴田勝家がこの地に築城する以前は朝倉氏の一族が居館を築いていた。 その朝倉氏は天正元年(1573)織田信長の軍勢によって壊滅する。この戦いには信長軍が総動員され、勝家はこの後の小谷城の戦にも参戦し、且つ同年には長島攻め、天正3年(1575)には室町幕府15代将軍足利義昭を擁立する勢力のいわゆる信長包囲網を崩すため河内の高屋城で戦い、すぐに三河に返して長篠で武田軍と戦い信長の武将として数々の武功を上げる。
 朝倉氏滅亡後の越前に、信長は朝倉氏の旧臣前波吉継を越前守護とする。しかしこれに同じく朝倉の旧臣冨田長繁が反発し、冨田は一向一揆と手を結び前波を討ち取る。その冨田も一向衆と反目し、加賀の一向衆の指導者であった七里頼周と越前の一向衆によって討ち取られる。この混乱を見て天正3年(1575)信長は大軍を率いて一向衆を殲滅する。信長は柴田勝家を越前に封じて築城を命じ加賀の一向一揆や越後の上杉謙信に備えさせた。北方方面司令官の地位を与えられた勝家は築城場所を朝倉氏の一乗谷ではなく平地の北庄とした。信長に倣って山間地の一条谷でなく平地に巨大な城を築き城下町を整備して経済重視の政策をとる。同時期、小谷城陥落後に近江の一角に封じられた秀吉も、平地である長浜に城を築き城下町を整備している。
 柴田勝家が築城した北庄城は現在残る福井城の本丸西方1kmほどの地にある柴田神社の境内当たりに本丸があったと推定されている。城郭の規模は結城秀康の築城した福井城と同程度であり、本丸には9層(7層との記録もある)の天守がそびえていたという。これは信長の安土城よりも高い。
 勝家は天正11年(1583)に北庄城に火を放ち最上階で自刃して果てる。僅か7、8年の在城である。城を造ったのも自ら命を絶ったのも主君である信長と深く関わっている。勇猛な武将であるが政治に疎い事が勝家の死期を早めた。戦国時代といえども世渡りは「軍人」であればよいというものではない。「政治家」の側面を持たなければ身を亡ぼす。それは指導者としての地位が高まれば高まるだけ必要とされる。信長は天正10年(1582)本能寺で明智光秀に討たれる。信長の臣であり、そのことに誇りを持ち、それ以上の望みを持ちえなかった勝家の運命はこの時すでに決まっていたのかもしれない。
 明智光秀を討ったのは中国大返しで畿内に戻った秀吉である。秀吉はこのとき備中高松城の水攻の最中であった。いち早く信長死亡の報を受けた秀吉は謀略を用いて相手側の毛利と和睦して早々に光秀追討に出る。そのとき勝家は上杉側の越中魚津城を攻略していた。6月2日に本能寺の変が起こるが、勝家はそれを知らず6月3日に魚津城を陥落させる。事件を知ったのは6日になってからという。しかも上杉側も事件を知って越中や能登の国衆を煽り、この対応で勝家が近江に出陣したのは18日になってから。すでに光秀は秀吉によって討たれた後であった。
 信長亡き後に清州城で行われたいわゆる「清洲会議」でも”軍人勝家”は”政治家秀吉”に翻弄される。最後まで信長の家臣であろうとした勝家は織田家の安泰を願い信長の三男・信孝を後継にしようとするが、天下を狙う政治家秀吉は優秀な信孝を避けて、信長の長男・信忠(本能寺の変の折に京都で死亡)の子でまだ赤ん坊の”三法師(のちの秀信)”を後継にすべく画策しこれに成功する。さらに秀吉は勝家をなだめる意味からか、信長の妹で浅井長政の妻となったお市の方(小谷城の戦の際に脱出した)を勝家の妻とすることを勧めている。
 北庄城に戻った勝家は秀吉の行状を知り「清洲会議」での誓約に違反したとして秀吉を非難するが、秀吉は着々と自身の地位を固める。勝家と対峙していた上杉とも和睦を結ぶ。勝家が信長の後継者として担いだ信孝も秀吉に屈伏する。
 天正11年(1582)3月勝家は北近江に出兵して秀吉と対峙する。勝家側は前田利家、佐久間盛政らの軍勢合わせて3万。秀吉側は5万の軍勢であったという。この戦は後に「賤ヶ岳の戦」と称され、緒戦では有利に戦いを進めた柴田軍であったが、先鋒の佐久間盛政が崩れ、前田利家は戦線離脱し(秀吉と内通説もある)柴田軍は総崩れとなり勝家は北庄城に敗走。北庄城でお市の方ともども自害する。因みにお市の方の三人の娘、茶々、お初、お江与は城を出されて秀吉の手に渡されている。秀吉はこのすぐ後に大阪城を築き天下人となる。
 江戸時代になって、柴田勝家の築いた北庄城の遺構はすでになかったが、勝家が自害をした日の旧暦の4月23日は「柴田忌」とよばれて城下の人が恐れていたという。この日の丑三刻、足羽川に掛かる九十九橋に首のない騎馬武者の行列が現れ本丸に向って行進するという。この行列を見たものは必ず死ぬとされて、この夜は戸締りを厳重にしてだれも外には出なかったという。

 慶長5年(1600)家康の二男で秀吉の養子(実質秀吉への人質)から下野の結城家へ養子となった結城秀康が67万石で北ノ庄に入封した。関ヶ原の戦の時、秀康は会津の上杉景勝に備える役目を与えられ、10万石から57万石の加増で関ヶ原の恩賞としては最も多い。秀康は入封の翌年から柴田勝家の北庄城を中心に築城に着手する。方形状の本丸を中心に二の丸、三の丸、さらに周囲を二重の外曲輪で囲んだ。本丸の北西隅に四重五階の天守が置かれ、三隅に二重の櫓があげられた。城全体を総曲輪で囲む計画であったが、慶長12年(1607)に秀康は34歳で亡くなり、この計画は中断する。家督は嫡男の忠直が継ぐ。
 忠直は慶長16年(1611)に徳川2代将軍秀忠の娘・勝姫を正室に迎える。徳川家門の中でも別格の扱いを受けていたようだ。しかし翌慶長17年に「越前騒動」が起こる。重臣間での確執が高じて武力を用いた大騒動に発展し、家康、秀忠の裁きを受けることになる。慶長19年(1614)の大坂冬の陣で忠直は用兵の失敗を家康から叱責されたが、翌年の夏の陣では真田幸村を討ち取り、大阪城へ先陣を切って攻め入るなどの武功を上げる。ところが忠直は戦の恩賞に不満を持ち、次第に幕府への不信を抱くようになる。忠直もまた政治知らずの軍人であったようだ。元和7年(1621)には病気と称して江戸への参勤をせず、元和8年には勝姫の殺害を企てたという。また些細なことで軍勢を差し向けて家臣を討つなどの乱行も多々あったとされる。暴君忠直の評判に将軍秀忠は元和9年(1623)に忠直に隠居を命じ、豊後府内藩(大分市)へ配流される。
 忠直の隠居後、忠直の弟で越後高田の城主忠昌が北ノ庄に入る。忠昌は入封に際して北ノ庄を「福居」と改称。その後元禄の頃には「福井」と呼ばれるようになる。またこのとき忠直の時の所領は分割され、忠昌は北ノ庄(福井)50万石、付家老本田成重に丸岡藩4万6千石、秀康三男直政にに越前大野5万石、秀康5男直基に勝山3万石、秀康6男直良に越前木本2万5千石が与えられた。越前敦賀郡は幕領となりその後京極氏の所領となる。
 地名の変更は忌まわしい事件の記憶を消し去る目的もあったのだろうが、その後の福井藩が安泰であったわけではなかった。支藩の分封や相続の諍いから所領が大幅に減少させられる。4代藩主の松平光道は聡明な人物であったが藩内重臣の対立は続き、世継ぎの問題や藩財政の圧力から延宝2年(1674)に自殺する。6代藩主綱昌は貞享3年(1686)狂気を理由に蟄居させられる。このときは前藩主を再び藩主として藩の存続は許されたが知行は25万石に減額させられた。その後徐々に所領は復活されたものの32万石止まりだった。
 福井城は万治2年(1659)と寛文9年(1669)の2度の大火に遭う。寛文の大火以降天守は再建されず、天守代用の三重櫓が建てられた。 

  福井藩  歴代藩主
家紋  入封時期 禄高  入封時藩主   
慶長5年
(1600)
67万石 結城秀康(家門)下総結城より入封 結城秀康は徳川家康の二男。秀康の死後、長男の松平忠直が藩主となるが、乱行を理由に元和9年(1623)に改易となる。
寛永元年
(1624)
50万石 松平忠昌(家門)越後高田より入封 松平忠昌は忠直の弟。このとき地名を福井に改称した。忠直の時の所領は秀康の子供らを中心に分割された。

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