日本の城ある記(北陸の城・大野城)

 北陸の城 トップページへ 日本の城ある記 トップページへ 
 大野城  (おおのじょう)

訪問記
 大野城のある越前大野へは福井から越美北線で行く。6時29分発の始発電車に乗り約一時間の行程である。最近改装された真新しい福井駅に着きコインロッカーに旅行カバンを預けようとしたが、これが利用できない。今日は大野城の見学の後に朝倉氏が拠点とした一乗谷城を訪れて再び福井駅に戻る予定である。2泊3日の旅なのでそれほど大きな荷物ではないが、大野城も一乗谷城も山城である(大野城は平山城)。荷物を持っての訪問はつらい。しかも天候は思わしくなく小雨模様。前日に福井城を訪れた際には問題なく利用できたのだが、コインロッカーのある場所が観光土産を販売するスペースの中にあって、早朝には営業しておらず、この区画は施錠されていて立ち入ることができない。駅員に他に荷物を預ける場所はないかと聞いたが「ない」と冷たい返事。県庁所在地の中心駅で、しかも最近立派に改装された駅舎があるのにコインロッカーが一か所しかないのかと腹立たしく思ったが致し方ない。カバンを抱えて列車に乗り込む。越前大野駅に着いて、ここで荷物を預けようとしたが、コインロッカーはおろか昔のような手荷物預かり所もない。近頃は自分で車を運転しての旅行が多く、列車の旅は不慣れではあるが、”ローカル線の旅もいいものだ”と、そんな思いで出かけた自分が恨めしくなる。それでも福井で降っていた雨は止んでいる。いつ降り出すかわからない空模様ではあるが、気を取り直し、カバンを肩に掛けて歩き出した。山頂にあるあ大野城までは約30分である。
 JRの駅名は”越前大野”であるが市名は”大野市”である。この地に最初に城を築いたのは織田信長の越前一向一揆平定で功があった金森長近。3万石を拝領して天正3年(1575)に大野盆地の亀山に築城を開始する。城の完成には約4年の歳月を要した。山頂に本丸を置き、二重三階の天守を建て、小天守、天狗書院、麻木櫓などの建物も整備された。また亀山の東麓に城下町を整備。南北に6筋、東西に6筋の通りで町割りをして、山側から武家屋敷、町屋、外側に寺町を配した。その当時の町割りは現在でもほぼ残っているという。
 本能寺の変で信長が討たれ、秀吉と柴田勝家が争った賤ヶ岳の戦いで金森長近は勝家の側につくが、勝家敗北の後は秀吉に降伏。小牧長久手の戦い、富山の役、飛騨の姉小路頼綱討伐などで功績をあげ飛騨3万8千石を拝領。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦では東軍に与し、その功により飛騨守に推挙されて初代の高山藩主となっている。
 金森氏の転封後、越前大野城は福井藩(北ノ庄藩)の支城となる。しかし福井藩(北ノ庄藩)2代目藩主の松平忠直(初代藩主結城秀康の嫡男)が隠居させられると、忠直の弟・忠昌が越後高田から入封して福井藩の藩主となる。このとき大野城は松平直政(結城秀康3男)が5万石で上総姉崎より入封する。寛永10年(1633)直政は信濃松本7万石へ転封になると、寛永12年(1635)直政の弟直基(結城秀康5男)が勝山から入封する。その直基は正保1年(1644)出羽山形15万石へ転封となり、結城秀康の6男松平直良が入封する。天和2年(1682)直良の家督を継いだ子の直明が播磨明石へ6万石で転封となると、土井利房(大老職を務めた土井利勝の4男)が4万石で入封。これ以後は土井氏が明治に至るまで藩主を務める。
 大野城は安永4年(1775)の大火で全焼する。以後本丸建物は再建されなかった。現代になり、昭和43年(1968)本丸に大天守と天狗書院が復興される。気象条件によって雲海上に浮かぶ天守の姿が見られ、近頃は”天空の城”として人気がある。(2015年7月30日)


  大野藩  歴代藩主
家紋  入封時期 禄高  入封時藩主   
慶長5年
(1600)
越前北ノ庄城の属領となる
寛永1年
(1624)
5万石 松平直政(家門)上総姉崎より入封 福井(北ノ庄)藩初代藩主結城秀康の3男
 寛永12年
(1635)
 5万石 松平直基(家門)越前勝山より入封  結城秀康の5男 
 正保1年
(1644)
 5万石 松平直良(家門)越前勝山より入封  結城秀康の6男 
 丸に
六水車
 天和2年
(1682)
 4万石 土井利房(譜代)下野より入封   

  ページトップへ 

 
Copyright(C) tenjikuroujin.jp All Rights Reserved.