訪問記
”人は城人は石垣” と信玄は言ったと、そんな話を聞いたことがある。信玄が居城としたのは戦国時代には珍しい平城である。自分が支配する軍団によほどの自信があったのだろう。とはいえ、武田氏館(躑躅ヵ崎館ともいう)はまったくの無防備ではない。城ではなく館であるが、堀を巡らせ土塁も築いている。中世の関東における武士団の館の延長であろうが、それよりも防御力はかなり強化されている。
私が武田氏館を訪れたのはこれで2回目。先回は昇仙峡の帰りに寄ったのだが、実のところここを信玄が居城としていたことは知らなかった。武田神社とあったので信玄を祀る神社であるとしか思ってもいなかった。もう20年以上前のことである。今回は多少の知識を注入して訪れた。従って、武田神社を参拝して帰るのではなく正門跡、馬出しの土塁、戻って中曲輪から西曲輪へ。さらに味噌曲輪からお屋形様の散歩道を通って隠居曲輪へと、のんびりと歩いてみた。
信玄はここで天下取りを夢見ていたのかと思いを巡らす。しかし、どうにも私にはその思いが浮かんでこない。天下取りを夢見る舞台は下界を見下ろす山城であることが私には必要だ。上杉の春日山や信長の岐阜城であれば天下の夢も膨らむが、ここでは目線上に現れるのは田んぼや畑だ。天下取りの気宇壮大な気分にはなれない。平城で天下を見た信玄と、私との器の違いか。そもそも比べることが不遜か。武田の軍団は戦国時代の最強軍団といわれている。あと10年信玄が長生きすれば天下を取れたと、そんな話も聞いたことがある。確かに信玄は最強の軍団を率いていた。天下を取れなかったのは上杉との争いに決着がつかず上京するのが遅れたためだという。そしていよいよ天下を取りに進軍した先で病によって倒れたという。だが、それ以上に信玄が天下を取れなかった理由がある。最強の軍団であったが、天下取りのために京へ遠征できなかった決定的な弱点があると少し前に読んだ本に書いてあった。武田軍の構成は約2割の武士と8割の足軽で構成されていた。武士は専業の武装 集団であるが、足軽は徴用された農民が主体である。従って戦争ができるのは農閑期に限られる。農繁期に農民を徴用すればたちまち食糧不足になって国が滅ぶ。戦をやってるどころではない。だから長期の遠征は無理なのだ。上杉軍と川中島で5回も戦って決着ができず引き分けに終わったのは、上杉も武田も軍団構成は農民兵が8割だったからだという。長期に徹底的な戦ができず、一定期間戦えば農業生産のために兵を引いて帰らなければならなかったからだ。それに対して新興武装集団の信長は農民を徴用するのではなく「傭兵」を用いた。広く各地から浪人を金で集めて兵力にしたのだ。それができたのは都市を持つ経済力にあった。中世の館を彷彿させる武田氏館をみて、改革を忘れた地場産業の衰退を連想する。
そうはいっても、武田信玄は甲斐の英雄である。甲府の駅前には信玄公の銅像が鎮座している。信玄は甲府という盆地の中で、その土地に根付いた経営者として立派な功績を残したと、そんな思いもする。ボーダーレスとかグローバル化とか言われて久しいが、なんだか無味乾燥で空しい世の中になったのではないか。今はむしろ巨大化を求めるのではなく、地域に根をはった特徴のある産業や生甲斐こそが求められると、戦国武将とは全く関係ないことが頭に浮かぶ。(2011年6月4日) |