日本の城ある記(東海の城・甲府城)

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 甲府城  (こうふじょう)

訪問記
 甲府の駅には商用で何度も降り立った。そこから甲府城の石垣が見える。だが、一度も甲府城に行っていない。時間がなかったわけではないが、行く気がしなかった。そのことに特段の理由があるのではないが、強いて思えば、あまりにも綺麗に積まれた石垣が私の足が向かうのを躊躇させていたのかもしれない。 古城のイメージではなく、近代土木の結晶のような石垣である。ちょっとマイナスイメージを持って訪ねたのだが、そんな先入感を打ち消すスケールの大きさに、甲府城の果たした役割を思い知る。私の生半可な知識の思い込みを反省する。
 甲府城は豊臣から徳川へ権力が移行する時期に完成した城である。豊臣政権下では江戸の家康を監視する目的として、江戸時代には信濃方面の守りの要として、また徳川政権に最も近い親藩の居城として重要な役割を演じた城である。ここに天守閣が存在していたのであればさぞ景色がいいものと想像するが、実際に存在していたかどうかは論争になっているようだ。
 城内を散策するが、かなり広い。一定の散策ルートがあるのでもく、気が向くまま足を動かせて歩き回るが結構石段のこう配がきつい場所もある。歩き疲れてベンチに座り、夕暮れに差し掛かった城を眺めるのもいいものだ。城内の石段を高校生の運動サークルがトレーニングの場所として利用している。地方の中核都市の城下町で過ごす青春時代はきっといい思い出になるに違いない。場所は違うが昔の若かりし時代を少し思い出した。(2011年6月4日)
  
 武田氏滅亡後、徳川家康が甲斐の領主となり、家康はそれまで武田信玄が居城としていた躑躅ヵ崎館を廃して新しい城造りに着手した。天正13年(1585)のことという。場所は中世の武将一条忠頼の居城跡であった。しかし、家康はほどなく関東に移封されたため、築城は浅野長政・幸長に引き継がれ、完成した。 
 城は甲府盆地の中心に位置する一条小山に築かれた平山城。最高地点に本丸を置き、西に一段下げて二の丸、清水曲輪、楽屋曲輪を配置した。さらに東から北側には稲荷曲輪、数寄屋曲輪、鍛冶曲輪を配置している。天守台が築かれているが、ここに天守閣があったかどうかの確証はないが、浅野氏が築城当時には松本城に匹敵する五層の天守が存在していたとの説がある。関ヶ原の戦の後、勝利した家康は再び甲斐を支配する。 最初の城主には譜代大名の平岩氏を城主としたが、以後は御三家・家門が城主として赴任した。
 徳川政権下で甲府城の存在はは重要視されていた。宝永元年(1704)に柳沢氏が入封し、享保9年(1724)に転封された後は幕府の直轄領となり、甲府勤番が在城した。享保12年(1727)火災により城の大部分が焼失したが、以後は再建されていない。現在は本丸と二の丸が舞鶴公園として整備されている。天守台、本丸、天守曲輪、鍛冶曲輪、二の丸の石垣が修復保存され、鍛冶曲輪門、稲荷櫓が復元されている。 

 甲府藩 歴代藩主
家紋 入封時期  禄高  入封時藩主   
慶長6年
1601 
6万3千石  平岩親吉(譜代)上野前橋より入封   
慶長8年
1603 
25万石  徳川義直(御三家・徳川家康の九男)入封   
元和4年
1616 
20万石  徳川忠長(家門・徳川秀忠の三男)入封   
慶安4年
1651 
25万石  徳川綱重(家門・徳川家光の三男)入封   
 宝永元年
1704
15万1千石  柳沢吉保(譜代)武蔵川越より入封   
   享保9年
1724
  柳沢吉里、大和郡山へ転封。以後幕領となる。   

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