城ある記
甲府駅からバスで武田神社へ。武田神社は武田信玄の父・信虎が築き、信虎、信玄、勝頼三代が60年にわたって居住した躑躅ケ崎館の跡地に建てられた神社。神社の祭神は武田信玄。要害山城は躑躅ヶ崎館の詰城として築かれ、ここから徒歩で約1時間の距離にある。躑躅ヶ崎館は何年か前に見学したので今日は素通り。要害山城に向かって歩き出す。
要害山城が築かれたのは永正17年(1520)で躑躅ヶ崎館が築かれた永正16年(1519)の翌年とされる。築城当時の道路状況は分からないが、現在は快適な自動車道が整備されている。車なら難なく行けるし、徒歩であっても然程の苦労もない。
要害山城の登城口は積翠寺温泉入口脇から山側に登る。主郭は標高約780mの山上にあり、比高は約250mほど。登り始めて直ぐに城門の跡らしき石組みが現れる。ここに門があったのかどうかわからないが、大手道に相応しい風景にいきなり出会い、険しいつづら折りの登城路のイメージが少し和らぎ、足の動きも軽やかになる。
登城路にはところどころ「門跡」「土塁跡」「竪堀跡」などの標識があり、縄張り図が手元になくともある程度は城の輪郭が想像できる。登り始めて20分ほどで不動曲輪に着く。ここには石造りの武田不動尊が祀られているが、説明板がないのでそのいわれは分からない。
不動曲輪の反対側にも細長い帯状の曲輪があり、その先端付近に井戸がある。諏訪水と名付けられた井戸で、僅かに水が溜まっている。この井戸だけで全てを賄うのは無理と思われるので、他にも井戸があったのだろう。
さらに主郭を目指して登る。何カ所もの曲輪の跡、その曲輪にはそれぞれ虎口が設けられているようだ。ほとんどは土塁だが、石組みも見られる。丁重で堅固な造りであったことが想像できる。
主郭は東西70m、南北20mほど。一部石組みの跡も見られるが全て高さ2mほどの土塁で囲まれている。虎口は大手(西)と搦手(東)の2カ所にある。主郭には武田信玄公誕生之地と彫られた記念碑が建てられている。要害山城が築城された翌年の大永1年(1521)に駿河国今川の家臣・福島正成が甲斐に侵攻。この時、武田信虎は身ごもっていた正室の大井夫人を要害山城に避難させ、信玄はここで生まれたという。
搦手虎口を出るとすぐに堀切がある。この堀切は石垣で固められた珍しい造り。この先は尾根を進むが、尾根は何カ所もの堀切、竪堀、土橋によって防御されている。主郭から約30分尾根を歩くと「深草観音・岩堂峠」の分岐点に出る。ここから深草温泉方面へ向かうと途中に要害山城の支城である熊城に登るルートがあるようだが、道が荒れていてルートが分かりずらいと手元のガイドブックに書かれていたので、ここで引き返すことにする。低山とはいえ老人一人の山歩きは慎重にと常々家族から念押しされている。
要害山城では戦闘が行われたことはなかったようだ。織田、徳川連合軍が甲斐に侵攻したときも、勝頼はここで立て籠もって最後の決戦をする気はなかったようだ。織田、徳川連合軍に追い詰められた勝頼は大月の岩殿城を目指して敗走している。結局は岩殿城に入ることができず、天目山で敗れて自害する。どうせの最期なら先祖伝来の地を選ぶものと思うのだが、そうしなかったのには理由があっての事なのだろうか。要害山城の規模からして、ここに籠って最後の抵抗を試みるのも、それなりの軍勢が必要となる。勝頼の周りにはそれに見合う兵力が残っていなかったのだろうか。
武田氏滅亡後の甲斐は徳川氏が支配するが、小田原征伐の後は豊臣秀吉の家臣が支配。この時代に要害山城が修復されたという。関ヶ原の戦以降、甲斐は再び徳川氏の支配下となり要害山城は廃城となる。(2019年3月14日) |