日本の城ある記(東海の城・岩殿城) 

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 岩殿城 (いわどのじょう) 

   
ある
 JR中央本線の大月駅に着いたのは午前8時を少し過ぎた頃。4月下旬の土曜日。大勢の登山支度の乗客が改札へ急ぐ。そのほとんどはJR大月駅と接続している富士急行線の乗り継ぎ改札に向かっている。富士山や河口湖方面へ行くのだろう。大月駅を出て歩き出す者はほんの数人である。その数人の行き先は、私と同じ岩殿山を目指している。

 岩殿山への登山口は国道139号線と中央高速道路交差する辺りにあるが、中央高速はトンネルとなっていて車の流れは見えない。大月駅から20分ほどの距離である。
 入口の冠木門をくぐると直ぐに石段が続く。岩殿山は標高約630m。比高は約270m程か。時間は余るほどある。急ぐことはない。15分ほど登ると岩殿山ふれあいの館の2階建て建物に着く。建屋の南に小山がある。自然の地形か公園整備で土盛したものか分からないが、頂上は平らに整地され、ここから大月市街が見渡せる。一見すれば城郭の一部で見張台か烽火台のようにも見えるが違うだろう。さらに20分ほど登ると稚児落しと山頂との分岐点に出る。「稚児落しは」は落城の際、追手に追われた一行が泣き叫ぶ稚児を断崖絶壁から落とした場所という。最近孫が生まれたばかりの私にはちょっと縁起が悪い。それに鎖場が続く登山道で危険とあるので寄り道せずに山頂へ向かう。

 稚児落しとの分岐を過ぎるとすぐに揚城戸跡に出る。登城路の両肩を自然の巨石が覆う。揚城戸は上にあげて開く仕組みの城門。この城門をくぐると岩殿城の城内となる。
 揚城戸に続く虎口を抜けると西物見台に出る。平安時代には修験者の修行の場であったようだ。ここには8mほどの高さの礫岩が露出していたが、崩落の危険があるので近時に破砕撤去されたという。
 西物見台から南物見台へ。さらに南物見台から山頂との間の鞍部に下りると、この山上では一番広い空間に出る。ここには馬場跡の標識があるが、ここまで馬をあげ、さらに乗馬の訓練をする姿が想像できない。今は半分散った桜の花に彩られた庭園の趣しかない。
 馬場跡から山頂への途中に蔵屋敷があったという細長い郭があり、さらに登ると岩殿山の山頂、本丸に到達する。残念ながら然程広くない本丸の大部分は電波塔の敷地となっている。本丸の東側は尾根を断ち切る堀切が設けられている。これより先は立ち入りが禁止されているようなので引き返す。
 馬場跡の中間地点に南側に下る道が付けられている。道は岩殿城の水の手とされる亀が池に通じている。馬場跡から20mほど下った窪地に石組みの井戸跡と、その下段に直径2mほどの池がある。池は草に覆われているがわずかながら水が溜まっているのが見える。
 岩殿城の築城時期は定かでない。戦国時代に谷村(都留市)を本拠とする小山田氏によって築かれ、同氏の詰城であったというのが通説であるようだが、近年は武田氏が東部防衛のための拠点として直轄していたという説の方が有力になっているようだ。いずれにせよ岩殿城は東西に延びる巨大な岩山の自然地形を生かした城郭である。南面、北面共に急峻な斜面で敵の侵入を防いでいる。しかし山上の郭には大部隊が駐留できるほどの空間はなく、また急峻な地形であることから補給路の確保も難しく長期の籠城には適さなかったのではと思われる。
 天正10年(1582)織田、徳川の連合軍が武田領に侵攻。武田勝頼は諏訪まで出陣していたが高遠城が織田勢によって陥落すると新府城に退却。さらに戦況は武田側の一方的な不利の状況となり、新府城を自焼して勝頼は嫡男信勝とともに小山田信茂を頼り岩殿城を目指す。しかし小山田信茂は武田勢の戦況挽回は不可能と悟って離反。信茂は笹子峠を封鎖し勝頼一行の進行を阻止する(進行を阻止した場所は異説もある)。岩殿城への退避を阻まれた勝頼一行は天目山(甲州市大和町田野)を目指すが、ここで滝川一益の軍と戦闘となり敗北。勝頼親子は自害して武田家は滅亡する。ちなみに織田・徳川勢による甲斐平定後に小山田信茂は信長に拝謁しようとしたが、武田氏への不忠を咎められて処刑される。
 天正10年6月に本能寺の変が起こり、北条氏が旧武田領に侵攻。これに対して徳川家康も反撃し、さらに上杉景勝や武田の旧臣の真田昌幸、地元国人衆が勢力拡大を目論み参戦する。北条氏は都留軍に侵攻して岩殿城を支配下に置くが、後に講和を結び徳川家康の帰属となる。以後の岩殿城は甲州街道の要衝として江戸時代を通じて徳川氏によって維持されていたようだ。(2019年4月20日)

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