日本の城ある記(東海の城・甲斐 能見城) 

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 能見城  (のうけんじょう

ある
 JR中央本線穴山(あなやま)駅で下車。駅舎を出ると50mほど先に30m程の高さの小山が見え、斜面には能見城と書かれた看板が目に入る。事前の準備が不足で城の縄張り図がなかったが、山の頂上を目指して歩き始める。登城路らしきものは林道しか見当たらなかったのでそこを歩く。途中窪地があり、おそらく自然の地形なのだろうが、水場の跡だと勝手に想像。10分も歩けば山の最高点に到着。
 頂上に能見城跡の看板と配水ポンプの建屋がある。その南約30m先に長靖寺の社(小屋?)がある。配水ポンプ建屋の南は穏やかに傾斜し一辺50〜60m程の四角形の平坦地に見えるが、下草、樹木に遮られて自由に歩くことができないので正確には分からない。何となく土塁の跡らしい土盛もあるが、これもここが城郭として整地された地形なのかどうか素人目には判断できない。それでも折角訪ねた城址である。城郭であることをイメージして歩き回る。
 長靖寺の南側にも3m程の高さの切岸(?)で仕切られた平坦地がある。二の丸といったところか。この先南側にも、一段下がって平坦地らしき地形が樹木の隙間を通して見られるが、そこまで行くには難しそうなので諦める。
 配水ポンプ建屋の北側、林道を越えて斜面を少し下ってみた。北斜面は南に比べて傾斜がきつい。帯曲輪らしき地形にも見える場所が何カ所かあり、土止めの石が崩落したような跡もあった(これも私の思い込みのせいでそう感じさせるのか)。さらに斜面の下まで降りようと考えたが、麓は民家や畑地と接続していて私有地のようであり、上から眺めて城の遺構のようなものは見当たらないので引き返す。
 上記掲載絵図は国立国会図書館のデジタルコレクション(所有権保護期間満了)から引用したものです。江戸時代に描かれた絵図(写)で下部に武田勝頼が築いた新府城が描かれ、上部に描かれた防塁は能見城と位置付られている。この絵図では能見城と新府城は一体として築かれた城郭としているようだ。私が能見城を訪れたときに用意したものはこの絵図しかない。これを頼りに堀跡あるいは虎口の跡を探そうとしたが、さっぱり分からなかった。もっと確かな縄張り図を見ながら歩けば違った風景が見られたかもしれないが、不完全なものであっても、あるいは縄張り図がなくとも城歩きはそれなりに楽しいもの。一見つまらない城跡でも想像力を逞しくすれば、自分の思い通りの城郭を描いて夢想するのも面白い。(2021年3月26日)
 能見城を訪問した後、色々調べてみたら私の頓珍漢なミスで全く見当違いな思い込みをしていたようだ。絵図の上部に描かれた防塁は能見城の一部であるが、山の中にあるわけではない。絵図の地形を見れば即座に判断できそうなものだが、現地に行けば分かるだろうと安易に考えていた。また訪れる機会があったら(多分ある)防塁跡を探してみたい。良好な状態で残っている遺構もあるようです。
   
   
 能見城がある穴山は南北朝時代に甲斐国守護であった武田信武の子息で穴山氏の祖・穴山(武田)義武が本貫(本籍・出身地)とする地(もともと存在していた穴山氏に義武が養子として入り、穴山氏を継承したとする説もある)。穴山氏はここに居館を置いて能見城は穴山氏の詰城として築かれたとの説があるが、資料的な裏付けはないようだ。穴山氏は後に甲斐国南部の河内に居館を移している。
 天正3年(1575)に武田勝頼は長篠の戦で織田・徳川連合軍に大敗したあと、天正9年(1581)の始めに新府城の築城を開始するが、その際、同時期に能見城をを築城したとする。勝頼は天正9年の年末にはまだ未完成であった新府城に移っている。この地に新たな城を築いて武田氏の拠点を手狭となった躑躅ケ崎館から移転する計画は信玄の時代からあったようだ。その構想からすれば、能見城と新府城が一体とした城郭として築かれていたと想定することは十分可能だ。城郭だけの移転でなく城下町をも含む移転であれば広大な用地が必要となる。ただし、これを裏付ける確かな資料もないようだ。
 最近の研究では、天正10年(1582)に武田氏が滅亡した後に起こった天正壬午の乱で徳川家康と北条氏直が対峙した時、家康は新府城を本陣として、同時に能見城を築いて防御を固めたという説が有力視されているようだが、私としては武田(信玄)氏が最後に描いた壮大な夢が能見城を含む新しい城郭、城下町の建設であったと思いたい。

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