日本の城ある記(東海の城・甲斐 白山城) 

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 白山城  (はくさんじょう) 

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 白山城はJR中央本線韮崎駅から西に約4kmほどの距離にある。白山神社側から登城するか武田神社側から登城するか迷ったが、事前にネットでルートを確認した時、武田神社から登城した人の登城口に迷ったという書き込みが複あり白山神社側から登ることにした。
 韮崎駅から歩くことも考えたが今日は白山城で三つ目のお城訪問。ちょっと疲れたし帰りの時間の制約もありタクシーを利用。しかしこれがちょっと失敗。タクシーの運転手に「白山城に行くので白山神社」までと言ったのだが、場所をよく知らなかったようだ。そのくせよく話しかけてくる。こちらも世間話に付き合って道々でルートを確認していなかった。道が行き止まり害獣防止の扉の前に停車して「ここだと思います」と言われる。ネット検索した時に見た風景によく似ていたので「はい」と言って下車。これが違っていた。正しい場所は100m程離れた場所だった。探すのに30分ほどロスしたが仕方がない。私の準備不足が第一の原因であろう。間違ったルートに入って野猿に出合ったことは収穫か。猿は私の姿を見て急いで逃げ出した。猿も驚いたようだが(猿に聞いてはいないが)私はそれ以上に驚いた。
 正しいルートを見つけて害獣防止用のゲートを通る。最近この設備によく出会うので扱いには慣れた。ゲートを通り、直ぐのところに縄張り図が掲示されている(左に掲載)。写真に撮って探索の参考にする。白山神社にも案内図(下に掲載・左が南、右が北)があり、これも写真に撮り探索の参考に。案内図には本丸まで15分と書かれている。実際に登ってみてほぼ時間通りだった。
 城郭の配置は本丸を中心に南に二の丸、北に土橋、堀切で仕切られた三の丸を配している。この構造から大手道は武田神社側からのルートのようだ。白山神社からは二の丸、本丸に通じている。途中に竪堀の跡のような、土塁の跡のような地形も見られた。
 本丸に入る前に二の丸へ向かう。二の丸に入ってすぐ、侵入を阻止するように倒木が横たわっている。自然に倒れたようには見えるが、他に荒れた様子もなく一本だけが倒れているのは何となく不自然。この先に侵入するなとの警告か。二の丸は本丸から南に一段下がった場所にある。不正形な方形。二の丸の西に幅約6m、長さ約20mほどの一段高く盛土がされた平坦面がある。物見台、櫓台の跡とも推測されている。
   
 本丸は城山(鍋山)の山頂部にある。周囲に土塁を巡らせている。虎口は南東と北西の2カ所。南東の虎口は二の丸虎口から北に延びる帯曲輪から入る。北西虎口はよく分からなかった。北側に井戸跡と想定される窪地がある。
   
 本丸南東の虎口を抜け本丸下を東から北に抜ける帯曲輪を通り、三の丸へ通じる土橋へ向かう。土橋の前は土塁が築かれ、門構えのような形状をしている。土橋を抜けて三の丸へ。三の丸には東と北に開口部(虎口)がある。東側は三の丸の北に切られた堀切へ。北側は北西に伸びる尾根に続き、ここを下れば武田神社へ繋がっている。 
 白山城は甲府盆地の北西端にあたる山梨県 韮崎市の城山(地元では鍋山ともいう)の山頂に本丸を置く山城。釜無川右岸の武川筋と言われる一帯には多くの山城が築かれているが、その中でも白山城は規模も大きく武田氏築城の典型的な山城として注目されている。ただし近年では天正壬申の乱の後に徳川あるいは豊臣の陣営によって修築されたという説も有力視されている。
 白山城を築いたのは、伝承では武田氏の祖とされる武田信義。信義はこの地に館を置き、その詰城として白山城を築いたとされるが裏付ける資料はないようだ。戦国時代、甲斐一条氏に連なる一族である武川衆の青木氏が白山城の守備を任されていたという。武田氏が滅亡し、織田信長が本能寺の変で死去した後に起こった天正壬申の乱で徳川家康は甲斐国を領有する。その際武田氏遺臣の一部が家康に臣従し、白山城には武川衆の青木氏らが配置される。江戸時代の寛永年間(1661〜1673)に廃城となったようだ。(2021年3月26日)

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