日本の城ある記(東海の城・甲斐 勝沼氏館) 

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 勝沼氏館  (かつぬましやかた)

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 JR中央本線「勝沼ぶどう郷」駅で下車。ホームに降り立つと、いきなり桜吹雪の歓迎を受ける。線路沿いに植えられた桜の並木が風に吹かれて花びらが舞っている。改札を出て駅前の広場に出ると大勢の人。ここは桜の名所のようだ。しばし立ち止まり桜に見とれたが、桜見物は後にして今日の目的地勝沼氏館へ向う。ここから約2km、徒歩で約20分の距離。
 勝沼氏館は東西に流れる日川右岸の河岸段丘上にあり、南と西側は約20mの断崖となっている。右図と下図は現地の案内板から転載したもので、館全体は下図のように広大である。現在保存展示されているのは主郭とされる内郭部分。内郭は東西90m、南北60mの規模。南と西側は日川の断崖に接し、北と東側には土塁、堀が築かれている。北西部および東南部に門跡が見られる。北西部の門(北門)の内側に武者溜がある。東南部の門(東門)には堀を渡って東郭に通じる橋が架けられていた。また門の内側には櫓台跡がある。内郭内部には板塀や堀によって遮断性を高めた15棟ほどの建物が建てられていた。内郭南西に工房跡(鍛冶場跡)がある。ここからは金が付着した土器が発見されていることから、近くの金鉱(黒川金山)から産出した鉱石から金の精錬が行われていたことが推定される。
 勝沼氏館は武田信虎(信玄の父)の弟である勝沼(次郎五郎)信友およびその子・信元親子二代が居館とした中世武士の館(城館)。発掘調査の結果、遺構が三層に別れて検出されていることから15世紀に築城(第1段階)されてから16世紀の前半(第2段階)、16世紀後半(第3段階)に少なくとも2度大規模な修築が行われたと推測されている。第1段階では内郭とそれを囲む帯郭程度の単純な構造の館。第2段階では内郭のほか、東郭、北西郭、北郭など複数の郭が築かれた。第3段階になると外堀や土塁が埋め立て、破壊されて防御機能を損なう改修が行われており、この時期には城館本来の機能が失われていたと推定されている。
 最初に城館が築かれた時期は確定していないようだ。勝沼信友の生年は分かっていないが兄の信虎の生年は明応3年(1494)と推定されることから、少なくともその年代以降であり、それに近い時代。発掘調査では第1段階が15世紀とされているので、この段階での遺構は信友の時代ではない可能性もあるのでは。また兄の信虎が武田家の家督を継いだのが永正4年(1507)とされる。永正5年(1508)甲斐都留郡を支配していた国衆・小山田氏が甲斐中西部に侵攻、信虎はこれを制圧する。この時期に信虎の弟・信友が勝沼性を名乗って勝沼氏館を堅固な要塞として改修したのではと推測する。勝沼氏館は都留郡を通って武蔵国に抜ける甲州道に面しており、武蔵国からの侵攻および小山田氏を監視する役目を担った城館であったと思われる。
 天正4年(1535)信友は北条氏綱との戦で戦死。信元が家督を継ぐ。信元は大永6年(1526)に信友の嫡男として生まれている。天正11年(1542)武田信玄に従って諏訪頼重の攻略に参戦する。以後信玄に従って信濃侵攻に従軍し戦功を挙げている。しかし永禄3年(1560)信元は越後の上杉謙信の凋落に応じた疑いをもたれ信玄によって 成敗される。これにより勝沼氏は断絶する。
 勝沼ぶどう郷駅から勝沼氏館までの道程は下り坂であったが、帰りは逆に上り坂(当然か)。乗車する電車の時刻を確かめると、急ぎ足でなくとも休まず歩けば桜見物をする時間はあるようだ。足元だけを見てひたすら歩く。それにしてもまだ3月だというのに今日は暑い。ジャケットを脱いだが額からにじみ出る汗が止まらない。(2021年3月30日)

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