日本の城ある記(東海の城・飯山城)

 東海の城 トップページへ 日本の城ある記 トップページへ 
 飯山城  (いいやまじょう)


訪問記
 春日山城から信濃の北の端にある飯山城へ向かう。上信越道を豊田飯山ICで降り、千曲川にそって走る国道117号線を北に向かう。10分ほど走って、小高い台地状の緑に囲まれた場所が城跡だとすぐに分かった。
 観光地化されていない場所だと思ったが、小型車なら100台ほど駐車できる駐車場が大型バスに占拠されて満杯状態。何とかスペースを見つけて駐車する。観光バスから降り立つ人はいずれも中年女性。まさか飯山城の見学が目的とも思えない。よく見れば皆さん長さ70センチ、幅20センチ、厚さ10センチほどの荷物を持っている。お城跡の敷地内に建てられたなんとか会館に入っていく。どうやらここで開催されるなんかの催しものに参加するために集まったようだ。取りあえず私の御城見物が騒音で邪魔されることはないだろうと安堵する。
 お城の雰囲気は想像していた通りだった。本丸跡には神社が建てられていたが神主が常駐している様子もない。石垣や土塁はよく整備され保存されているが、観光客を相手にしているのでもない。住民の憩いの場であるだけだ、そんな空気が伝わってくる。町興しのためにお城を商品化していないのがいい。いや、だからと言って観光地化したお城を非難しているのではない。私のような無計画でいい加減な旅人を受け入れてくれるお城がなければ困る。とはいえ、あまりにも商業化された施設では興ざめする。その辺のバランスが難かしいが、飯山城のような城跡に出会うとほっとした気分になる。
 本丸に登ると千曲川の眺めがよい。こんな場所に住んで、気が向けば城跡をのんびりと散策する。そんな余生を送ることができたら幸せなんだろうなあ、と思いつつ千曲川の水の流れにしばし見とれる。(2011年6月4日)
     
 飯山城の東部には千曲川が滔々と流れ、西部は山地に囲まれている。城郭は丘陵地を整地した平山城で、典型的な梯郭式の城構えとなっている。
 最初に築城したのは応永年間(1394〜1428)この地を支配していた泉氏といわれている。その後、現在の長野県中野市に居城を構える高梨氏の支配下となり、その支城となった。弘治3年(1557)高梨氏は武田信玄によって中野の高梨氏館を追われ、飯山を本拠にする。また武田に対抗するため上杉謙信の支援を求め配下となる。謙信は武田の侵攻に備えて永禄7年(1564)に本格的な築城をしたとされる。その後上杉景勝の居城となり、景勝が会津へ転封した後は豊臣秀吉の家臣であった石川光吉が代官として支配し、慶長3年(1598)には関一政が3万石の禄高を得て入封する。徳川の代になり慶長8年(1603)に皆川氏が入封し、その後何代か城主が変わったが、享保2年(1717)に本田助芳が越後糸魚川より入封した以降は幕末まで10代にわたり本田氏が城主を続けた。
 建物は明治元年に旧幕府軍の攻撃でほとんどが焼失。城門は全部で12棟あったが、そのうち一度民家に移築された南中門が再移築されて保存されている。そのほか4棟が民家やお寺に移築されて残っている。
   


 飯山藩 歴代藩主
家紋 入封時  禄高  入封時藩主   
慶長8
(1603) 
7万5千石  皆川広照(譜代)下野皆川より入封   
慶長15
(1610) 
4万石  堀直奇(外様)越後坂戸より入封   
元和2
(1616) 
3万石  佐久間安政(外様)近江高嶋より入封   
寛永16
(1639) 
4万石  松平(桜井)忠倶(譜代)遠江掛川より入封   
 石持ち地抜き? 宝永3
(1706) 
3万3千石  永井直敬(譜代)播磨赤穂より入封   
正徳元
(1711) 
4万8千石  青山幸秀(譜代)摂津尼崎より入封   
享保2
(1717) 
2万石  本多助芳(譜代)越後糸魚川より入封   

  ページトップへ 

 
Copyright(C) tenjikuroujin.jp All Rights Reserved.