日本の城ある記(東海の城・上田城)

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 上田城  (うえだじょう)

訪問記
 上田城は真田一族の居城。一度は訪ねてみたいと思っていた。六文銭の旗印はあまりにも有名で、その武勇伝はあらゆる方面の題材になっている。
 私が上田城を訪ねたのは長野の善光寺、別所温泉にある北向観音を訪ねた途中でのこと。善光寺、北向観音を訪ねたのは東国三十三か所の霊場めぐり満願のお礼。北向観音のある別所温泉で宿をとるつもりだったが、ゴールデンウイークの期間中にもかかわらず事前の予約はしていない。どの宿もほぼ満室状態。従って希望の予算での宿泊は無理。やむを得ず上田市内に戻ってビジネスホテルを宿とする羽目に。とはいえ、これも結構楽しい思い出にもなった。ビジネスホテルであるから温泉設備は無いが、ホテルの支配人に教えてもらった近場にある村営の日帰り温泉へ行ったり、夜は上田市内を散策して地元の名物料理を食べる。お仕着せの宿の料理を食べるよりこの方が気ままで気楽だ。
 上田城には、上田市に着いたその日の夕刻と上田市を離れる日の早朝に行った。真田時代の城の縄張りを示した資料は手に入らなかったが、現在の荒れ果てているが素朴な面構えの櫓から、真田一族の栄華と悲運が偲ばれる。上田には趣のある城下町の姿も残っていると聞いていたが、今回は訪れる時間がなかった。この次は、もう少しゆっくりと過ごしてみたいと思っている。  (2004年5月2日)
   
 上田城は天正11(1583)甲斐武田氏の旧臣、真田昌幸によって築かれた。真田昌幸は武田家滅亡後に織田信長に臣従し、滝川一益の与力となる。滝川一益が上野で北条氏に敗退すると一時は北条氏に臣従するが、すぐに徳川の誘いに応じ、上田城の築城を始めた。天正12年(1584)徳川と北条が和議を結ぶと、これに反発して昌幸は徳川と決別する。
 真田昌幸は天正13(1585)徳川軍を上田城に迎え、これを撃退した。さらに慶長5(1600)には西軍(石田三成)に加担し、上田城に2千の兵と篭城。これに対して関ヶ原へ進軍中の徳川秀忠の軍3万8千の兵が攻撃したが陥落させることができず、撤退した。秀忠はこの戦の為に関ヶ原の戦いに遅れることになる。現在残る城跡からは想像もできない堅固な構えの城であったようだ。 
 真田昌幸の築いた上田城は関ヶ原の後に徳川家康によって破却される。したがって、現在残る城跡から当時の城構えを想像することは難しい。ただし、山鹿素行の記した”武家事記”に「天守もなき小城」とあり、千曲川を天然の防護として利用したものの、城郭そのものは堅固な造りではなかったと思われる。寛永3(1626)以降に仙石氏の手により上田城は再建されるが、天守閣は築かれなかった。   

上田藩 歴代藩主
 家紋  入封時期  禄高  入封時藩主  
 慶長8
(1601)
 9万5千石 真田信之(外様)上野沼田より入封   
丸に無の字  元和8
(1622)
 6万石 仙石忠政(外様)信濃小諸より入封
寛永3(1626)築城を開始するが寛永5(1628)に中断。 
宝永3
(1706)
 4万8千石 松平(藤井)忠周(譜代)但馬出石より入封  

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