日本の城ある記(東海の城・小諸城)

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 小諸城  (こもろじょう)

訪問記
 小諸城には上田城を訪ねた帰り道に行った。島崎藤村の歌「小諸なる古城のほとり 雲白く遊子かなしむ」は誰でも一度は口ずさんだ思い出を持つ。ついでに同じ藤村の歌「千曲川旅情」”昨日またかくてありけり 今日もまたかくてありなむ この命なにをあくせく 明日をのみ思いわづらふ いくたびか栄枯の夢の 消え残る谷におりて 阿波のいざよふ見れば 砂まじり水巻き帰る ああ古城なにをか語り 岸の波なにをか答ふ”同行者の国文科出身のカミさんは一人思いに耽っている様子。経済科出身の私は(ただし、4年間ほとんどを雀荘で過ごしたが)江戸時代の最初の藩主だった仙石忠政が、この地で産出する蕎麦の取引で大儲けをした話に興味をそそられる
 小諸城は現在は懐古園として公開されている。庭園主体の公園かと思って門をくぐったが、予想に反してかつての城跡が十分に残されている。櫓や天守閣は無いが、残された石垣を見て、千曲川のほとりに建つかつての城郭がよみがえってくるようだ。心静かに歩けば、私にも藤村の歌が浮かんでくる。(2004年5月3日)
 
小諸城の創築時期は定かではないようだが、戦国時代末期に武田信玄の東信濃支配の為に整備されて現在の縄張りになったと考えられている。武田信玄の軍師・山本寛助の縄張りと伝えられているがこれも定かではない。石垣を構築した近世城郭となったのは仙石秀久によるもので、三重の天守が建てられ、その天守には桐紋の金箔押瓦が用いられていたという。
 特異なのは、城郭が城下町よりも低地に縄張りされ、市街地から城内を見渡すことができること。このため、穴城とも鍋蓋城ともいわれる。
 現在城跡は小諸城址懐古園として公開されている。当時から残る遺構は石垣の他には入口の三の門、少し離れた市街地に大手門がある。この他に移築された建物があるらしいが私は見ていない。
       かたわらに秋草の花語るらく
       ほろびしものはなつかしきかな 若山牧水
  

小諸藩 歴代藩主
 家紋  入封時期  禄高  入封時藩主  
丸に無の字  天正18
(1590)
  仙石秀久(外様)   
 元和8
(1622)
  将軍・徳川秀忠の三男、徳川忠長の甲斐府中藩領となる  
寛永1
(1624) 
 4万5千石 松平(久松)忠憲(譜代)美濃大垣より入封  
 慶安1
(1648)
4万2千石 青山宗俊(譜代)入封  
 寛文2
(1662)
 3万石 酒井忠能(譜代)上野那波より入封  
 延宝7
(1679)
 2万5千石 西尾忠成(譜代)駿河田中より入封  
 天和2
(1682)
2万石  石川(松平)乗政(譜代)常陸小張より入封  
元禄15
(1702) 
 1万5千石 牧野康重(譜代)越後与板より入封  

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