日本の城ある記(東海の城・龍岡城)

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 龍岡城 (田野口陣屋)  (たつおかじょう・たのくちじんや)

訪問記
 信州に五稜郭があると知ったのは今回の小旅行に出発する直前のこと。信州佐久地方にある三重塔を巡るために計画した旅行だが、地図を見て、訪ねる三重塔のルートに城跡があるのを発見。その名前を頼りにネットで検索すると、函館の五稜郭とほぼ同時期に築城された城とある。それならば寄り道する価値はあるとコースに加えた。それにしても何故信州の田舎に五稜郭を作る必要があったのだろうか。幕末の騒然とした状況の中で築城者は何を目的に、何を考えていたのだろう。築城した松平(大給)乗護氏は三河奥殿の藩主。元から佐久の田野口に所領があったにせよ、ここに陣屋を移転したのは、信州の田舎に逃げ込み身の安全を図るためだったのか。いや、大義のため官軍と一戦を交える覚悟であったのか。それともこの地にユートピアの建設を夢見たのか。幕末維新の歴史の中でこの城が登場することはなかった。少なくとも何らかの役割を果たしたとの記録を私は知らない。それは単に私が無知であるからなのか。小規模の城郭といえども築城には莫大な資金が必要となる。領主の思いつきや気紛れで百姓町民の年貢や運上金が使われたのではたまらない。もっとも、これを無駄な出費と考えるのは小市民的な発想なのかもしれない。年貢や運上金で得た資金であっても、それが資材の購入費や労賃として還元されれば地域の経済は潤ったのかもしれない。築城は地域経済活性化のため、現金収入を得る機会をもたらす公共事業のようなものであったのかもしれない。
 佐久インターから佐久市の中心部を通り、千曲川沿いに南下して新海三社神社を目指す。その途中に田野口陣屋、地元では龍岡城と呼ばれる城跡がある。築城者の思いを勝手に想像しながら訪れたが、現地を見て「なるほど」と多少は築城者の思いを納得。ここに陣屋を移転した理由は兎も角として、五稜郭というネーミングから想像する近代戦を想定した城塞のイメージからはちょっと違う、むしろ平和な時代の陣屋の跡、或いは館跡といった感じだ。確かに形は五稜郭だが、巡らされている堀の幅は狭く深くもない。石垣は水面までの基礎部分だけでその上は土塁だが、それもそれほどの厚みも高さもない。1万6千石といえども大名である。その館と考えれば、それだけのことのようにも見える。陣屋あるいは館が五稜郭の形をしているだけのことだ。とはいえ私は築城当時の様子を知っているのではない。今は小学校の用地として使用され、かつ周りは長閑な田園風景である。そんな雰囲気の中で戦闘を目的とした城塞をイメージすることが難しいだけなのかもしれない。感覚的に物事を捉える習性の私にはこの程度が限界のようだ。 この城に不満があってのことではない。静かな田舎町にしっぽりと佇む風情は訪れた者を優しくさせる。できるならばこれ以上の観光地化は避け、隠れ里にある館の雰囲気を残してほしい。通りすがりの訪問者の勝手な言い分ではある。 (2012年4月15日)
  

田野口(龍岡)藩 歴代藩主
 家紋  入封時期  禄高  入封時藩主  
元治元年
(1864) 
 1万6千石 松平(大給)乗護(譜代)三河奥殿から陣屋を移転。田野口藩と改める。  慶応2年(1866)五稜郭式の陣屋完成。明治元年(1868)龍岡藩へ改称。 

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