日本の城ある記(東海の城・松本城)

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 松本城  (まつもとじょう



訪問記
 松本城を訪れたのはこれで何度目なのだろう。はっきりとした記憶がないが5、6度、いやそれ以上訪れているかもしれない。学生の頃は穂高や上高地に行ったついでに寄った。社会人になってからも信州を旅する度に都合がつけば立ち寄った場所だ。松本城は何度見ても飽きない。訪れる時期、時間によってその姿が変化する。もっとも、冬の時期は訪ねていない。春から秋にかけて、ほとんどは夏場に訪ねている。今度も秋に訪れた。何度も訪ねた場所だが、写真に記録したのは数えるほどしかない。家庭を持って、子供と訪ねた時に記念写真を撮った程度だ。学生の頃は写したり写されたりするのを嫌っていた。 特段理由があったのではないが、自分の目で見たもの以外は信じなかったし見たものは全て記憶にとどめることが出来た。思い出を残そうとの発想はなかった。過去を振り返るなど、そんな思いになることを馬鹿にしていた。
 今は、自分の目で確かめたものですら、それを長く記憶に留める自信がない。もっとも記憶に残す価値があるものとは思えないことばかりだが、そうなら忘れ去ればいいだけだが、確かにその通りだが、何だかそれも寂しい気分になった。今、60歳を過ぎて、自分の足跡を記録しておこうと、つまらない事を考えるに及んで、せっせと写真を撮りまくっている。
 何度も訪れた松本城だが、ほとんどは短時間の立ち寄りで終わっていた。今回は松本城を訪ねることを第一の目的にしていたので少し時間をかけた。実のところ、天守閣の最上階に登ったのは今回が初めてのことだ(記憶が薄れているので間違っているかもしれないが)。月見櫓に登ったのは記憶にあったが、急な階段(はしご?)を登って松本城下を眺めた記憶はなかった。
 天守閣から眺める北アルプスの姿に改めて感動した。若いころに登った山々を見て、むかし見た夢を思い出している。時間が過去に戻るのは、そんな気分に浸るのもたまにはいいものだと思う年代になっている。(2010年11月7日)
 
 松本城は、戦国時代の永正年間(1504〜1520)に信濃守護家である小笠原氏が松本平にに林城を築城し、その支城として深志城が築城されたのが始まりとされている。 甲斐の武田氏の侵攻を受けて小笠原氏は没落。武田氏は林城を破棄して、深志城を拠点とした。武田氏滅亡後、天正10年(1582)に徳川家康の配下となった小笠原貞慶が旧領を回復して、松本城と改名した。
 城構えは典型的な平城。5層6重の天守を中心として北面に乾小天守を渡り櫓で連結。東面に辰巳付け櫓と月見櫓を配した複合連結式天守となっている。
 天守の建造年にはいくつかの説がある。もっとも古い建造年説は天正19年(1591)新しいものは慶長20年(1615)である。何れにせよ古天守閣が現存する12城のうちの一つで国宝に指定されている
     
  



 夜景(2016.09.26撮影)

松本藩 歴代藩主
家紋 入封時期  禄高  入封時藩主   
天正18年
(1590) 
   石川数正  
慶長18年
(1613) 
8万石   小笠原秀政(譜代)信濃飯田より入封  
元和3年
(1617) 
7万石   松平(戸田)康長(譜代)上野高崎より入封  
寛永10年
(1633) 
7万石   松平直政(家門)越前大野より入封  
寛永15年
(1638) 
10万石   堀田正盛(譜代)武蔵川越より入封  
寛永19年
(1642) 
7万石   水野忠清(譜代)三河吉田より入封  享保10年(1725)水野忠恒改易となり、一時廃藩となる 
享保11年
(1726) 
6万石   松平(戸田)光慈(譜代)志摩鳥羽より入封  享保12年(1727)本丸御殿焼失。以後再建されず

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