日本の城ある記(東海の城・高島城)

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 高島城  (たかしまじょう)


訪問記
 諏訪湖へは学生時代から何度も訪れている。ただし、数10年前に一度嫌な思い出があり、それ以来諏訪湖は高速道路のサービスエリアから眺めるだけの存在になっていた。
 古くから交通の要害であり、諏訪大社があり、諏訪一族の拠点であったから城郭が築かれていたことは想像していたが、実のところ立派に再建された天守閣があることは、つい最近まで知らなかった。城マニアとしては情けない限りだが現実である。今回のお城を巡る小旅行には予め立ち寄ることに決めていた。春日山城から飯山城、松代城を経て高島城に着いたが、事前の予定では今日中でなく、何処かで宿をとって明日訪ねる予定だった。一人旅は気侭なもので、自分の思いだけで時間が進む。食事をとる時間さえ惜しんで車を飛ばしたせいで、午後2時ごろには諏訪湖畔に着いていた。高島城には中央自動車道の岡谷ICで降りて諏訪湖を半周する形で到着した。ただし、ここまでは快適に車を飛ばしてきたが、城郭見学用に造られた駐車場は満杯。近くの市役所の駐車場も満杯で止められず、有料の駐車場も見当たらない。30分くらい待って、ようやく停めることができた。
 築城時は諏訪湖に突き出した水城であったらしい。このため「諏訪の浮城」と呼ばれていたらしいが、今はすっかり様相が変わっている。干拓がすすみ諏訪湖の湖岸は目視できない距離にある。天守台の石垣の真下が普通の車が往来する車道になっている。ちょっとがっかりしたが、見る方向によってはなかなかよい景色を見せてくれる。当時から残る建築物は三の丸にあった城門が本丸に移築されて残るだけ。それでも復元された天守と櫓が古城の雰囲気を醸し出している。駐車場が満杯であったので、さぞ見学者が大勢いると思っていたが、まばらな人数しかいない。まあ、落ち着いた城跡の雰囲気に浸るには丁度良かった。(2011年6月4日)
   
 中世、この地を支配していた諏訪氏は元高島城の北にある茶臼山に城郭を築いて居城としていた。天正18年(1590)諏訪氏は武蔵奈良梨へ転封となり、代わって入封した日根野高吉が文禄元年(1592)から慶長3年(1598)にかけて現在地の諏訪湖畔の高島村に築城する。
 築城当時の高島城は諏訪湖に突き出すように築かれていた。「諏訪の浮城」の異名の通り、高島城は島根の「松江城」、近江の「膳所城」とともに日本三大湖城と」呼ばれた。
 湖水が堀の役割を担っていて、このため、諏訪湖側には防御の重点を置いていない。しかし、元和元年(1615)には湖岸の干拓が始まり浮城の面影はなくなると同時に防護の面でも脆弱になった。現在天守台石垣の下は道路になっているが、湖岸を干拓して以来堀を作ってはいない。江戸時代も現在と同様の状態であったようだ。領主はすでに戦闘のない時代が長く続くことを予感していたのかもしれない。 
日根野氏の築城当時の高島城は総石垣造りで8棟の櫓、6棟の門、3重の天守が築かれていた。軟弱な地盤であったため、木材を井桁に組み、それを基礎として石垣を組むなどの工夫がされている。当時としては最新の技術を用いている。信長、秀吉の下で城普請を経験した日根野高吉は織豊系の築城の伝統を受け継いでいる。 高島城での戦闘の歴史はなかったが、政治的には重要な役割も演じた。 江戸時代になってもともとこの地を支配して諏訪大社の大祝(おおはつり)であった諏訪氏が慶長6年(1601)に領主として復帰。寛永3年(1626)に家康の6男忠輝が事件を起こした際、高島藩が忠輝を預かることになり、高島城に南の丸を増築して幽閉場所とした。南の丸はその後も幕府関係の流人の幽閉場所となる。
 元禄16年(1703)には吉良上野介の孫で養子の吉良義周が吉良邸討ち入り当日の行ないが「不届き」であったとして諏訪藩預かりとなり、宝永3年(1706)21歳で死亡するまで南の丸に幽閉されている。  

 諏訪藩 歴代藩主
家紋 入封時期  禄高  入封時の藩主   
慶長6
(1601) 
2万7千石  諏訪頼水(譜代)上野惣社より入封   

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