日本の城ある記(東海の城・高遠城)

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 高遠城  (たかとうじょう)

訪問記
 高遠の桜に惹かれて高遠城を訪ねた。以前より桜の名所であることは知っていたが、急に思い立って訪ねるには少し遠い。だから、毎年どこかに桜を見に出かけるのだが、ここは一度も訪れたことがない。今回は前もって準備して出かけた。幸い快晴ではないが、所謂花曇りの天気。
 私の頭の中では、高遠といえば桜よりもむしろ絵島・生島事件の方が印象深い。大奥を舞台にしたこの事件の顛末の詳しいことは知らないまでも、役者の生島新五郎が三宅島に遠島。大奥の大年寄絵島が高遠に流された物語のあらかたは承知している。大奥や将軍職の権力闘争に巻き込まれたものとの見方もあるが、素直に、江戸時代に 死罪を顧みずに色恋に走った男と女の生き様に心を惹かれる。
 高遠城は市街から少し離れた小高い丘の上にある。丘全体が桜に覆われ、正に桜の山だ。これら桜の木は全て廃城になってから地元に残った侍の子孫が中心となって植えたものだそうだ。
 桜に覆われて城跡の状況がよくは見えない。戦闘の地から平和の園へ変わってしまったようだ。桜を愛でながら城門までの結構きつい登り坂を歩く。城域全体はそれほどの高低差は無いが、やはり防護を巡らした城跡である事を実感する。城は川と川に挟まれた段丘の上に築かれている。もともと石垣があったのかどうかわからないが、現存するのはほとんどが土塁だ。江戸時代の山里深い高遠で、長きにわたってこの地を治めた内藤家3万3千石の居城に相応しく質素で堅固な城構えが想像できる。(2004年4月14日)
  
 高遠城は三峰川と藤沢川の合流点を見下ろす段丘上に築かれている。ここからは、段丘の裾を通過する天竜川流域から諏訪方面をつなぐ街道を見下ろせる。山の中にあっても段丘上ははほとんど高低差がない。また、東側の山からは城内が見下ろせる。このために防護のために幅、深さを十分に備えた堀、そして土塁を多重に巡らしている。
 高遠城は諏訪氏一門の高遠頼継が居城としたが、現在につながる城郭としての体裁が整えたのは武田信玄である。信玄は天文16(1547)に山本勘助らに命じて大規模な改修工事をさせたといわれている。領国を接する織田・徳川に対する重要な軍事拠点であった。天正10(1582)織田信長は本格的な武田攻めを開始し、長男の織田信忠に5万の兵を与え高遠城を攻めさせた。高遠城には3千の兵が篭城し、徹底抗戦をしたが玉砕して落城した。この戦いで功をあげた毛利長秀が城主となるが、その3ヶ月後には本能寺の変があり、その報により、武田家の旧臣木曽義昌が高遠城を急襲して占領した。この後木曽義昌は徳川家康に追われることになる。桜の名所として名高い高遠城も血生臭い戦国の歴史を刻んでいる。この先は何時までも桜の名所としての歴史だけを刻んでほしい。

高遠藩 歴代藩主
 家紋  入封時期  禄高  入封時藩主  
慶長5
(1600) 
 2万5千石 保科正光(譜代)下総多古より入封  
 寛永8
(1631)
 3万石 鳥居忠春(譜代)出羽山形より入封   
 元禄4
(1691)
 3万3千石 内藤清枚(譜代)入封  

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