城ある記
今年の冬が例年に比べて特段寒さが厳しかった訳でもないのだが、やはり歳の所為かやたら暖かさを求める心境になる。しばらく訪れていない伊豆を訪ねて春を探そうと河津へ向かった。河津桜が満開だと、テレビのニュースで流れていたのをカミさんが見て、急に思い立ってのことだ。
朝の通勤ラッシュが解消する時刻を見計らって横浜を出発。在来線の普通電車に乗り熱海で乗り換えて約2時間。平日であったが河津駅は早咲きの桜を求める観光客で混雑している。駅前に「河津城へ」と書かれた小さな案内板を目にしたが「またお城見物ですか」とカミさんの不満が口に出ないよう、見ないふりをして通り過ぎる。
春先に河津を訪れるのは三回目だと思う。過去の2回は訪れたのが少し早かったのか、満開の桜を見ることができなかった。今回はテレビニュースの情報を得て出発したので初めて咲き誇る満開の桜の下を歩くことができた。 2時間ほど散策して「今度は山の上から桜を見てみよう」と切り出す。満開の桜を見て気分が良くなっていたのか、意外にもカミさんは即座に了解。先に歩く私に黙ってついてくる。
河津駅の北へ100mほど歩く。案内板に従って山側の道に入る。車一台が通ることができる程度のかなり勾配のきつい車道を歩く。カミさんの顔が不安そうだ。民家が途切れたあたりから本格的な山道に入るが、坂道の勾配は逆になだらかになって歩きやすい。樹林帯と竹林に囲まれた快適な遊歩道である。ところどころ石垣が見られるが、これがお城のための施設なのかわからない。石は僅かに苔むして古い時代に組まれたもののようにも見えるが、多分遊歩道を整備する際に組まれたものだろう。河津城本郭のある山頂近くになって道は急に険しくなる。山登りの時、頂上直下はいつも経験するパターン。さすがにカミさんも音を上げ、何度も立ち止まる。
河津城は標高約180mの山頂にある。頂上部分に築かれた郭は2段に分かれている。上段土塁を支える石組は築城当時のものだろうか。頂上部以外にも尾根筋にいくつか郭が配されているようだが、規模的に大きなものではないのだろう、よくわからなかった。また観光的に整備する過程で休息場所として再整備されているのかもしれない。
河津城は戦国時代初期に足利氏と血縁のある蔭山勘解由によって築かれたと伝えられている。延徳3年(1491)伊勢新九郎(北条早雲)による伊豆侵攻に伴い河津城は落城。このとき城は火攻めを受け、燃え盛る火の手を消そうとするが水はなく、やむなく大量の兵糧米を山頂より流して火消を試みたが、消すことは出来ず落城したという逸話がある。
炎に包まれた城は、今は河津桜の花びらに包まれている。城下を流れる川の岸辺も河津桜の花びらの炎に彩られている。戦国の悲惨な面影はどこにもない。(2019年2月22日) |