訪問記
田中城は特異な縄張りの城郭である。低丘陵地の頂部に方形の本丸を置き、この本丸を中心として二の丸、三の丸、総曲輪が同心円状に取り囲んで四重の堀を巡らし、直径600mほどの城域を持つ。
田中城を訪れる前にネット上でこの付近の地図を探し出してみると、特異な城の縄張りの痕跡は町並みを円形に結ぶ道路に残っていた。私の手元のガイドブックには市街地化により遺構の多くは失われて僅かに堀と土塁の一部が残るのみと記されているが、ともかく現地に赴きこの目で確かめることにする。
東海道線の西焼津駅で下車し、田中城の資料館である藩主の下屋敷跡を目指す。駅から約2km。徒歩で30分ほどの道程である。
下屋敷跡は歴代藩主が住居とした場所。本丸にも御殿が建てられていたが、どうやらこの御殿は駿府城に隠居した徳川家康が鷹狩の際の宿舎として利用するために作らせたもののようだ。これに遠慮して、歴代藩主は本丸御殿でなく下屋敷を利用していたという。
現在の下屋敷跡は江戸時代当時の半分ほどの面積に縮小されているとのこと。下屋敷の西側を流れ、一部を分岐して下屋敷に取り込み、また田中城の堀の一部となってた六間川も改修されて直線状になり当時の様相をから大きく変わっている。それでも下屋敷庭園跡の土塁の一部が残り、六間川の水流も部分的に復元整備されて当時の下屋敷の様相を垣間見ることができる。このほか明治維新後に旗本に払い下げられ住居として利用されていた二階建ての本丸櫓が移築復元されている。
資料館で貰った史跡マップを頼りに田中城の痕跡探しに出かける。本丸跡は小学校の敷地となり、ここに田中城本丸跡の標識はあるが、痕跡らしきものは何もない。元々高低差の少ない丘陵部に作られた本丸であり、石垣は用いられず土塁で周囲を固めていたもので、その土塁も平地に均され堀も埋められてしまえば何も残らない。他には何かないかと歩き回り、多分二の丸を囲っていたと推測される堀跡を見つける。また、今は全く一般の住居となっていしまっている住宅地に円形上の道路を見つける。半周ほど連続していたので、おそらく当時から利用されていた道路か、あるいは埋められてしまった堀の跡ではないかと思う。ドローンでも飛ばして上空から写真を撮ればもう少しはっきりとした痕跡が見つかるかもしれないが、今はこれ以上いたし方ない。
この地に最初に築城したのは今川氏の命を受けたこの地の豪族の一色氏で、天文6年(1527)のこととされる。当時は徳一色城と呼称された。元亀元年(1570)に武田信玄が駿河に侵攻し、徳一色城を攻略し、田中城と改称。信玄は家臣の馬場信房に城の改修を命じる。この時の改修によるものかどうかの確証はないが、二の丸、三の丸には丸馬出しが6箇所設けられており、また死角をなくして最少人数で防御できる円形の縄張りは甲州流築城術の模範とされている。信玄は遠江の徳川家康に対峙する拠点として田中城を重要視していたという。天正10年(1582)武田氏の衰退を期に家康は田中城を占拠。家康の支配下に置かれる。関ケ原の合戦後、駿府城の支城としての田中城に酒井忠利が1万石の禄で入城する。慶長12年(1607)になって駿府城に隠居した徳川家康は田中城本丸に鷹狩の際に宿舎とする目的で御殿を整備する。慶長14年(1609)に酒井忠利は武蔵川越に転封となり、田中藩は駿府藩に組み込まれる。寛永10年(1633)になって松平忠重が入封し田中藩が復活。以後、徳川譜代大名の赴任地として数々の藩主が入れ替わる。
田中城でもっとも有名な出来事は「家康と鯛の天ぷらの話」のようだ。下屋敷跡の資料館でもらった資料に詳しく書かれている。元和2年(1616)家康は鷹狩の途中で田中城に立ち寄り、訪れていた京都の豪商茶屋四郎次郎(三代目)の勧めで鯛の天ぷらを食し、余りのうまさに大食いし、それがもとで亡くなったとという。細部については諸説あるが、大筋のところは史実であるようだ。(2016年8月24日) |