日本の城ある記(東海の城・諏訪原城)

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 諏訪原城  (すわはらじょう)

訪問記
 高天神城を見て駿府城へ向かう途中で 諏訪原城に立ち寄る。私の車にはカーナビが付いていない。10年以上乗り回したポンコツ車だ。うまく目的地に到着するかどうか不安だったが、紙の地図を頼りに一度も迷うことなく、いや本当は迷っているのではないかと終始不安だったが、全く正確にたどり着いた。そろそろ到着するころだ、ここいらがそうではないかと感じて少し車のスピードを落とすと丁度駐車場の看板が見えた。あまりのタイミングの良さに我ながら驚いたぐらいだ。これまで横浜と名古屋の間は車で何十回と往復した。しかしそれは東名高速を利用してのことで、一般道を通って静岡の町を走るのは久し振りのことだ。
 諏訪原城は牧ノ原台地の先端部分、大井川を見下ろす断崖の上にあり、ここは旧東海道に隣接した交通の要所でもある。駿河を押さえた武田信玄、その子勝頼が遠江への侵攻の拠点として築城したのは正に理のかなったことだ。霊峰富士の姿も一望できる。天下取りを夢見るには最高の場所でもある。武田氏の滅亡により諏訪原城は廃城となり、長く放置されたが空堀や曲輪の跡がよく残っている。少し前までは石垣の無い城跡を見ても何の興味もわかなかったが、江戸期のように安定した時代の城ではなく、この頃は戦国期の砦のような城跡にも興味を持つようになった。先に見た高天神城もそうだが、崩れかけた土塁の跡や、空堀の跡にこそ戦国侍の息吹が伝わってくる。日本中が国取り、天下取りに高揚していた時代の人の生き様が感じられる。
 諏訪原城を出てすぐに国道一号線のバイパス道に出るのではなく、金谷の町まで急カーブの下り坂が続く旧道を走った。もう半世紀近く昔のことになったが、私が高校1年生の時、名古屋から自転車で伊豆半島を一周する旅行の途中にここを通った。私一人の旅だった。国道一号線は今はバイバスができてトンネルで通過してしまうが、その当時はつづら折りのカーブが連続する狭い2車線の道路だった。その時の道が今走っている道と同一かどうか確信はないが、狭い2車線の国道一号線を懸命になって自転車のペダルを踏み続けた昔が懐かしく甦ってきた。名古屋を出発して浜松に泊まり、静岡の久能山下の旅館を目指して大井川を渡った。記憶はだいぶ薄らいできたが、未来しか見ていなかった時代が懐かしい。(2011年12月18日)
 
 永禄12年(1569)今川氏が滅亡して、その領地のうち駿河を武田が、遠江を徳川が支配することとなったが、やがて両者は争うこととなり元亀3年(1572)に三方が原で徳川家康を敗走させた武田軍は翌元亀4年(1573)に諏訪原城を築城して遠江攻略の拠点とした。天正2年(1574)には徳川側の主要拠点であった高天神城も陥落させた。しかし天正3年(1575)長篠の戦で武田軍は織田・徳川の連合軍に大敗。以後家康は武田軍の各拠点を攻略して諏訪原城も2か月の攻防戦の後に徳川軍が奮取した。その後、天正10年(1582)武田氏が滅亡すると城の存在意義が薄れ天正18年(1590)には廃城となった。諏訪原城の遺構には甲州流の築城術の特徴である丸馬出、三日月堀、枡形虎口などが残っており、徳川軍が奮取した後も基本的な縄張りは変更せずに使用していたようだ。なお、家康は諏訪原城を手に入れると諏訪原城の名を牧野城に改めた。 

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