日本の城ある記(東海の城・興国寺城) 

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 興国寺城  (こうこくじじょう)

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 興国寺城は北条早雲こと伊勢新九郎盛時が56歳になって初めて城主になった城として有名だが、近年はこれについて異論も出ているようだ。伊勢新九郎盛時(以後、あえて北条早雲と呼ぶ)が興国寺城の城主となったとされる長享元年(1487)は戦国時代の幕開けとされる明応の政変(明応2年・1493)の直前の時期で、この時代の世の中の動きは縦糸横糸に斜め糸が絡みつき、素人には難解で理解し難い。北条早雲が興国寺城の主となった切っ掛けである今川家の家督相続の仲介・調整で功をあげたとの説も、近年の歴史家の間では当時の室町幕府の指示のもとにその権勢を背景として成し遂げたものと解釈されているようだ。後に伊豆へ侵攻して堀越公方の足利氏を滅ぼし、伊豆一国を支配したという国盗り物語も中央政権の権力闘争がその背景にあったという。
 これまでは身分の低い無名に近い武士が、おのれの力量だけで一国を奪い取り、しかもそのスタートが人生50年と言われる時代に56歳で初めて城主となった興国寺城からであり、定年退職してから一旗挙げた中高年世代のヒーローのように感じていたが、その思いが消え去っていくようだ。近年の研究では早雲の出自は備中荏原荘に所領を持つ足利氏譜代の重臣伊勢氏の一族で、室町幕府8代将軍足利義政の側近を務めた伊勢備前守盛定の嫡子であるという。また駿河守護職の今川義忠の正室「北川殿」は盛定の娘で盛時の姉妹であるという。こうしてみると早雲が興国寺城の城主になったことや伊豆一国を支配に及んだことも唐突な出来事ではなく、念入りに準備された歴史の流れのように感じてしまう。

 とはいっても、おのれの力量がなければ家督相続の調停も伊豆の支配も成し遂げることは難しい。私の中では国盗り物語の主人公であり、中高年のヒーローであり続けることに変わりはない。
 興国寺城が築かれた時期は確定していないようだ。左の絵図面に記載された興国寺城はおそらく早川早雲が城主となった時代よりずっと後のもので、廃城となった慶長12年(1607)直前のものと思われる。(ただし北曲輪・清水曲輪が記載されていない)早雲の時代はもっと規模が小さかったようだ。もっとも、早雲が興国寺城の主であったという、そのことを疑問視する説もあるようだからややこしい。天文18年(1549)に今川義元が興国寺に対して出した、築城用地であるから移転を命じる文書が、興国寺城に関して初見とされる文書という。
 しかし興国寺城があった駿東郡は今川、武田、北条氏が奪い合った係争の地。この地を守る拠点が古くからあったとしても不思議ではない。規模はともかく、何らかの城郭は存在していたと思う。今川義元が興国寺に出した移転を命じる文書は、おそらくその時期に城郭を整備拡張する必要からのものと思われる。
 北条早雲が伊豆韮山に居城を移したのち、興国寺城は天文5年(1536)に今川氏から北条氏に、天文6年に武田氏に支配が移り、その後時期は不明ながら再び今川氏の支配となる。ただしこれらはいずれも確証がある出来事ではないようだ。永禄11年(1568)武田信玄の駿河侵攻に今川の援軍として出陣した北条氏康が興国寺城を占拠。元亀2年(1571)に武田と北条との和睦により、興国寺城は武田側に引き渡される。天正10年(1582)武田氏滅亡に伴い、興国寺城は徳川家康が支配。関ヶ原の戦のあと、慶長6年(1601)に天野康景が1万石の所領を得て城主となるが、慶長12年(1607)領内で起きた事件に対する幕府の裁定に不満を持った康景が出奔する。このため興国寺藩は改易となり、城は廃城となる。
 興国寺城は北から「北曲輪」「天守台」「本丸」「二の丸」「三の丸」北曲輪の東側に「清水曲輪」からなる連郭式縄張りの城。但し上記掲載した絵図面には北曲輪、清水曲輪が記載されていない。絵図は江戸後期に作成されたものと思われ、その当時は樹木に覆われて城郭か否かの判別が困難だったと想像する。しかし、現況は明確にその存在を示す遺構が残っている。北曲輪から富士山の雄大な姿を眺めることができ、また本丸からは遠く駿河湾を望むことができる。三の丸の一部は道路によって分断され、二の丸、三の丸の南側の土塁は崩されていが、現地に建つ案内板によると復元も予定されているようである。北条早雲の夢の跡である興国寺城がこの先も残っていることを期待したい。(2018年3月26日)

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