日本の城ある記(東海の城・葛山城) 

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 葛山城 (かずらやまじょう)  


ある
 河村城を訪ねた後、御殿場線山北駅から御殿場を経由して同じく御殿場線の岩波駅で下車。駅舎は富士の裾野にある。田舎の駅かと思ったが、この近くにトヨタ自動車の広大な研究施設や工場がある。下請けの部品工場もいくつか進出しているようだ。駅前の商店に都会の雰囲気はないが、人が行き交う姿は結構目に付く。
 葛山城は駅から徒歩で40分から1時間の距離という。乗車待ちのタクシーはいたが、ほぼ平坦な道のようなので歩くことにした。駅前の商業、住居地域を抜け車の往来の激しい4車線の国道渡り、10分ほども歩けば民家もまばらになり田園風景に変わる。雄大な富士の姿が間近に見られる。暑くもなく、寒くもなく、車の往来もほとんどない田舎道をのんびりと歩くのは、この時期の山城探索のもう一つの楽しみでもある。
 東名高速の道路下のトンネルをくぐり300mほど進むと四辻に出る。直進すれば「葛山城・仙年寺」へ行くとする案内板があるが、右手、北の方角の道を進む。しばらく歩けば左手に「葛山城大手口」の案内標識がある。下草も刈られて歩きやすい登城路である。山城であることを感じさせないゆったりとした大手曲輪、それに続く袖曲輪、さらに東曲輪へ進む。これだけ見ただけで葛山城は想像していた以上に広大な城域を持っていることを実感する。
 東曲輪から本丸のある主郭部へは大きな二本の空堀で隔てられている。直進は出来ず主郭部土塁を回り込むよう進む。主郭部へ至るまでには何本かの竪堀が掘られている。曲輪のゆったりとした雰囲気と違って防御策はしっかりと取られているようだ。主郭部は2段になっていて下段に二の丸、帯曲輪。上段に本丸が配されている。
 主郭部の西尾根には西曲輪が配備されているが、主郭部との間は東曲輪と同じく二重の空堀で隔てられている。西曲輪は東曲輪に比べると少しワイルドだ。樹木の伐採が余りなされていないせいか東曲輪より狭く感じる。また西曲輪から主郭部を見ると堀切の土塁が重なって荒々しい雰囲気を出している。これも東曲輪にはない城郭の表情である。
 西曲輪に「水の手」と「雷神宮」との分岐を示す案内板がある。「水の手」は北側に緩やかに下っている。10分ほど下ると樹木の生い茂った沢に出る。水の流れや、水の溜まった
跡などは見られなかったが、このあたりに井戸を掘って水場としたのだろうか。窪地らしい地形もあるので雨水や自然の湧水を利用していたのかもしれない。
 来た道を戻らず、裏手を回り込むようにして尾根上に上がり、なだらかな尾根筋を進むと「雷神宮」に出る。小さな祠と鳥居があるが由緒や由来などを書いた案内板がないので、これが築城当時から存在していたものかどうかわからない。
 西曲輪に戻り、主郭部の下から仙年寺へ下る。仙年寺には歴代の城主を祀った墓がある。
 葛山城が築かれたのは室町時代。築城者は藤原北家の流れをくむ惟兼とされる。葛山に移住して地名の「葛山」を名乗ったようだ。葛山氏は鎌倉幕府の御家人となり、南北朝時代には南朝方に属した。室町時代には今川氏の被官人となったようだ。永禄11年(1568)甲斐の武田信玄が駿河に侵攻。この時の葛山城の城主・氏元は武田方に内応。葛山氏元は同じく今川側であった朝比奈氏や瀬名氏らと今川氏と同盟関係であった相模の北条氏側の大宮城(現富士市に所在)を攻撃する。大宮城は陥落したが、元亀1年(1570)に手薄になった葛山城は深沢城(現・御殿場市所在)と共に北条氏康、氏政によって占拠される。しかし武田勢も大軍で深沢城を包囲し、元亀2年(1571)になって北条方は撤退。葛山城も解放される。一旦破綻した甲相同盟はこの時再び復活したとされる。
 葛山氏元は武田側に対して謀反の疑いがもたれ、信濃国の諏訪に幽閉されて天正1年(1573)に処刑される。
 葛山城は武田信玄の六男・信貞(のぶさだ)が氏元の次女を正室に迎えて継承し、葛山氏を名乗る。ただし信貞は葛山城に在城せずに甲府に在府していたとされ、葛山領は葛山氏の一族で信玄の侍医であった御宿友綱が代行した。
 天正10年(1582)織田信長による甲州征伐により武田勝頼は敗北、自刃して武田家は滅亡する。同時に葛山信貞も甲斐の善光寺で自刃し、葛山氏も滅亡する。以後、葛山城は廃城となった。
 葛山城の南に100m四方ほどの広さの葛山館跡がある。四方を高さ3mほどの土塁で囲まれている(一部崩壊)。建物の遺構は何もないがここから葛山城を望むことができる。
(2019年3月9日)

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