日本の城ある記(東海の城・高天神城)

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 高天神城  (たかてんじんじょう)

訪問記 
 高天神城の存在を知ったのは国会図書館のデジタル資料で古城絵図の中に収録されていたから。それまでは何の興味もなかった。中世から戦国時代の砦や城は私には難解で敬遠していたが、この頃は少し興味を持つようになった。混沌とした時代の、日本中が天下取り、国取りに高揚していた時代の、その頃の人間の生き様が伝わってくるような気分にさせてくれる。高天神城は何度もその支配者が入れ替わった、まさに戦国時代の象徴ともいえる城である。高天神城を攻略するために家康が築いた横須賀城を訪れた後、高天神城まで車を走らせた。
 工業団地を抜けて少し走ると駐車場がある。そこに車を止めて案内板を見ると、ここ(搦め手口)からは倒木の危険があり本丸跡へは通行止めだと書いてある。仕方なく南口(大手口)の方に車を回す。ここにも注意書きがあって今は高天神社となっている西の丸や井戸曲輪は倒木の危険のため通行できないと書いてある。位置関係や状況がよく飲み込めないまま、ともかく登り始めた。
 急斜面の山に造られた中世城郭であるが、道はよく整備されていて何なく登ることができる。少しのぼると大手門の跡に出る。ここには立札があり、元亀2年(1571)に武田軍が2万5千の兵を持って攻撃したが、大手門の強固な守りを見て難攻不落の城塞であると判断して兵を引いたことなどが書いてある。そこから本丸まで登るが、意外に狭い。急斜面の尾根上に造られた山城であるから仕方がないのであろうが、2万5千の武田兵を退却させるだけの仕掛けがどこにあったのか私には想像できない。この辺りが中世、戦国時代の山城を見る難しさだ。予備知識を持って想像力をたくましくしないとイメージが湧いてこないし、その時代に自分を溶け込ませることができない。俄か仕入れの知識だけでは無理なようだ。
 本丸、御前曲輪から西の丸への道が倒木のため通行止めとなりロープが張ってある。ロープが張ってあるが普通にまたげば易々と通ることができる。(そういう問題でないということは理解している)それに、倒木の危険があると書いてあるが、若いころ山登りを何度も経験したことから勘案して状況はさほどでもないと判断した。通行止めは行政の過剰な心配症が理由ではないか。山城見学は山登りと同じで危険が伴うもので、事故は自己責任と勝手に判断。それでも多少の後ろめたさを感じながら(そうなら立ち入らなければいい)高天神社のある石段を登る。
 一通り歩き回ってみたが、眼で見ただけで山城の全体像を把握することが難しい。もっとも、そのことが山城を攻略することの難しさかもしれない。攻める方は何が出てくるかわからない不安に怯えて、場合によっては戦わずして兵を引くこともある。ただ、高天神城が地政学的にみて何故それほどまでに重要な戦略的な拠点であったのか良く分からない。今は只、昔ここで何度かの攻防戦があったとだけ理解しておきます。(2011年12月18日)
  
 高天神城は標高132m、周囲との比高さ約100mの小高い山に築かれた山城。最初の築城は平安時代末期治承4年(1180)から元歴2年(1185)の治承・寿永の乱のころ、地元勢力によるものと思われるが確かな記録はない。16世紀後半に今川氏の家臣福島助春が城主として入城。しばらくは今川氏の支配下にあったが、永禄12年(1569)今川氏は滅亡、徳川家康の支配下となる。元亀2年(1571)に遠江侵略を目論む武田信玄が2万5千の兵で攻略したが、撤退。天正2年(1574)信玄の子勝頼が2万の兵で攻撃し、城主小笠原氏助は織田・徳川の援軍を得られず降伏。以後武田側の遠江での拠点となり岡部元信を城主とした。天正3年(1575)の長篠の戦で織田・徳川連合軍が武田軍を破ると、家康は高天神城攻略のために横須賀城など6カ所の拠点を築き、天正8年(1580)高天神城を攻め、天正9年(1581)に奮取した。落城後、城は廃城となった。
 高天神城の規模はそれほど大きくはないが急斜面の山に効果的に曲輪が配置され、大手道、搦め手道以外からはよじ登ることが難しく難攻不落の要塞であったようだ。石垣はないが多くの曲輪は土塁で囲まれ、堀割りが各所に設けられていた。廃城となってから長い年月がたっているが、曲輪、土塁、堀割りの遺構はよく残っており、見学のための通路も整備されているので容易に入ることができる。
 

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