日本の城ある記(東海の城・横須賀城)

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 横須賀城  (よこすかじょう)

訪問記
 遠州灘の海岸線を走る150号線は車の通行量も比較的すくなく快適なドライブが楽しめる。この道は何度となく走ったが、そこから陸側を走る県道は一度も通ったことがなかった。横須賀城の名も、高天神城の資料を見て、その攻撃準備のために築城された城だと初めて知った。丸石を石垣に使っている変った城ということなので一度は見ておくべきと思い立ち寄ることにした。
 袋井インターで東名を降り、袋井市の中心部に出て東海道線、東海道新幹線のガードをくぐって県道を南下。道なりに進めば20分ほどで大須賀の町に出る。大須賀の町の名はここに最初に城を築いた大須賀氏に由来するものか?。それとも”須賀”というのは砂州、あるいは水辺の開けた場所を指すらしいのでそれに由来するものなのだろうか。横須賀城は元々は海岸線に沿って築城されたという。それが宝永4年(1707)に起きた大地震により海岸線が変わり、陸地に囲まれた現在見られるような地形になったという。
 大須賀の町に入って、古い街並みに見とれている間に横須賀城を通り過ぎてしまった。というより、横須賀城は浜松方面からだと町に入る入口あたりを左折した場所にある。うっかり看板を見落としたようだ。大須賀の町並みは車で走れば5〜6分で通り過ぎてしまう。ちょっと様子が変だと思いちょうど自転車で通りかかった野球のユニホーム姿の高校生を呼びとめて場所を聞くと言葉使いも丁寧に教えてくれた。今時の青年は立派なものだ。
 評判通りの石垣を見て、これなら石垣をよじ登るのは容易いと見えたが、実戦では相手からの攻撃をかわしながら登ることになるので、平らな石を使った石垣と大差はないのかもしれない。この辺りの判断は私の想像力や理解力では無理だ。最上部の本丸跡から遠州灘が見える。訪れた時は12月の中旬だがほぼ無風の快晴。長閑な風景が気持ちも伸び伸びとさせてくれる。高天神城攻撃の最前線とは思えない。平和な城下町に建つ平和な城といった趣だった。(2011年12月18日) 
 
 天正2年(1574)に高天神城が武田勝頼によって奪われ、その奮取のため天正6年(1578)徳川家康は家臣の大須賀康高に命じて高天神城攻撃の拠点として横須賀城を築城させた。天正9年(1581)に高天神城を奪うと、家康はこれを廃城にして横須賀城を遠州南部支配の拠点とした。横須賀城(別名を松尾城という)は小笠原丘陵の先端部分、松尾山の中腹に本丸を置く山城として築かれているが、山城から平城に移る中間的な特徴を備えていて、中世城郭と近世城郭の二つを併せ持っているとされる。城域は東西650m、南北350mにおよび小藩としては広い面積を有し四重の天守が置かれていた。また、普通は一ヵ所しかない大手門が東西2カ所あり「両頭の城」という別称もある。築城当時は城の手前まで海が深く入り込み、三方が入江と沼で囲まれた天然の要害であった。この入江に横須賀湊があり物流の拠点でもあった。また、この入江は掛川城の外堀に通じており、当時は掛川城と横須賀城の間は船運で結ばれていた。
 石垣は「玉石積み」といわれる天竜川によって運ばれた丸い川原石を用いて築かれている。これは他に類を見ないものと言われているが、築城当時の天然の要害の地にあってはこれで十分防御の用をなしていたものと思われる。
 現在は本丸、西の丸を中心に整備され、特徴的な川原石により石垣も復元されている。
 

横須賀藩 歴代藩主
家紋 入封時期  禄高  入封時藩主   
慶長6年
(1601)
5万5千石 松平(大須賀)忠政(譜代)上総久留里より入封 元和元年(1615)松平忠政は実家の榊原家を継ぎ一時的に廃藩 
元和5年
(1619)
2万6千石 松平(能見)重勝(譜代)下総関宿より入封  
元和8年
(1622) 
5万2千石  井上正就(譜代)入封   
正保2年
(1645) 
5万石  本多利長(譜代)三河岡崎より入封   
天和2年
(1682) 
2万5千石  西尾忠成(譜代)信濃小諸より入封  明治元年(1868)徳川家達駿府入封に伴い安房花房に転封。廃藩となる。 

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