訪問記
浜松は私が20代から30代の前半まで営業の担当地域としていたので何度も訪れている。何度も訪れたが一度も浜松城に行っていない。新幹線で浜松の駅に降りても仕事で訪問する先は市内の中心部にはあまりなかった。それにその時期は比較的まじめに仕事に精を出していたので結構忙しく、城跡を見学する時間的な余裕がなかった。しかし、浜松城の存在を知らなかったわけではない。三方ケ原で武田軍に敗れた家康が命からがら浜松城に逃げかえった話は当時から知っていた。何度も訪れていた場所だから、いずれそのうちと思っている間にその機会を失っただけだ。
家康が遠江の支配と武田の侵攻に備えて整備拡張した城であり、江戸時代には有力譜代大名の赴任地となった城。それだけに何か特徴的な趣があるのかと思って訪ねたが、そのイメージを満足させる城ではなかった。復興天守がコンクリート製であるのは仕方がないにしても、よくできたミニチュアセットの感じがしてならない。如何してこんな思いになるのか自分でもよく分からないが浜松は赴任した諸大名の出世の糸口になった城といわれる。踏台になった城のイメージがそうさせるのか(2011年12月17日)
最初にこの地に城を築いたのは諸説あるものの、室町時代から戦国時代にかけて活躍した足利氏の一門で当地の支配者であった今川貞相とされる。永正年間(1504〜1520)に天竜川西域の広範囲の領土を支配するために佐鳴湖東部の丘陵地帯に築城。当時は曳馬城と呼ばれた。天然の石を上下に積み重ねた石垣は「野面積み」と呼ばれる。また本丸、二の丸、三の丸を線上に並列させる梯郭式とされる縄張りを確立した。今川義元が桶狭間の戦で戦死すると、永禄11年(1568)に徳川家康によって攻略される。
元亀元年(1570)家康は武田信玄の侵攻に備えるため三河・岡崎からこの地に本拠を移し、城を拡張整備して同時に城の名称を浜松城と変えた。元亀3年(1573)に家康は信玄と三方が原で戦うが大敗して浜松城に逃げ帰る。信玄が家康を追撃しなかったため家康は壊滅を免れ、天正14年(1586)に駿府城に移るまで家康は17年間にわたり浜松城を居城にした。家康の関東入封後に豊臣家臣の堀尾吉晴、その子・忠氏が11年間にわたり城主であった。その間に城は大改修がされたという。関ヶ原以降は譜代大名の赴任地として多くの大名が城主を務めた。歴代城主の多くが江戸幕府の重役に出世したこともあり「出世城」の異名もある。
堀尾氏の時代には天守が存在していたとされるが江戸時代初期にはすでに失われていたらしく記録に残る絵図にはその記載がない。本丸にあった二重櫓が天守の代用であったようだ。昭和33年(1958)に鉄筋コンクリート製の天守が建築されたが、これは史実に基づかない模擬天守。 |