日本の城ある記(東海の城・二俣城)

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 二俣城  (ふたまたじょう)

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 浜松から遠州鉄道に乗り終点の西鹿島駅で下車。そこから天竜浜名湖鉄道に乗り換え次の駅の二俣本町駅で下車。乗り換え時間を含めて約40分。二俣町の駅は駅員のいない無人駅。乗車駅の新浜松駅との落差が面白い。
 二俣の町は遠州平野と北遠の山間部との接点にあり、天竜川の水運にも恵まれた軍事的にも経済的にも重要な場所に位置する。
 目指す二俣城までは二俣本町駅から直線距離で約1km。15分ほど歩く。二俣城は天竜川が大きく蛇行してU字型になったその先端近くの比高約40mの台地上に築かれている。西側を天竜川。東側は崖地で且つ現在は流れを変えているが築城当時は二俣城を囲むように天竜川に流れていた二俣川を天然の堀とした要害の地にある。
 この地に最初に城郭を築いたのは戦国時代の初めの文亀年間(1501〜1503)で、遠江の守護代であった斯波義雄とされる。但し築城の場所は現在の二俣城から北方へ約1.5kmほど離れた平坦部であった。現在の二俣城と区別するためこの城郭を笹岡城と呼んでいる。斯波氏は遠江・三河へ進出を目論む今川氏と争っており、その拠点として笹岡城を築いた。しかし永正3年(1506)伊勢宗瑞(早雲)率いる今川軍が三河へ侵攻、この過程で笹岡城は今川氏支配となり、今川氏配下の武将瀬名一秀が城主となる。その後今川氏の武将が城主を務め、享緑2年(1529)に城主となった今川氏の重臣松井宗信が現在の場所に二俣城を築いたとされるが、その確証はない。
 永禄3年(1560)桶狭間の戦で今川義元が織田信長に討たれ、義元に従軍していた松井宗信も討ち死にする。二俣城は宗信の子・松井宗恒が城主となるが、永禄11年(1568)武田信玄と徳川家康が今川領に侵攻。翌永禄12年に今川氏は滅亡する。松井宗恒は武田信玄を頼るが家康に攻められ降伏。二俣城は家康の支配となる。家康は元々は今川氏の家臣であった鵜殿氏長を城主とする。元亀元年(1570)に家康は居城を岡崎から浜松城に移す。時期は明確でないが二俣城の城主に家康の家臣であり家康の長男・信康の家老であった中根正照を据える。これまで今川氏の支配地だった駿河を信玄、遠江を家康が領有するとの両者の間で密約があったが、これが反古となる状況になったことが影響してこれらの動きになったと思われる。武田信玄は相模の北条氏と同盟を結び、一方の徳川家康は上杉謙信と同盟を結ぶ。
 元亀3年(1572)10月武田信玄は上洛を目指して遠江、三河へ侵攻する。(この時点での最終目的が上洛であったかどうかは異なる説もあるが、信玄が織田信長と雌雄を決する覚悟であったことは確かだと思う)。信玄の遠江、三河への侵攻ルートには諸説あるが、信玄本隊は2万5千の軍勢で大井川を超えて遠江に侵攻。高天神城を通り、磐田原台地のはずれ、三箇野川で徳川側の一隊と小規模な戦闘があり、さらに天竜川の河川敷に至る一言坂で戦闘を交えている。いずれも徳川側が敗走し、武田勢が勝利を収めている。信玄はそのまま天竜川を渡って家康のいる浜松城に向かわず、天竜川の東岸を北上して二俣川城を攻めた。この時の二俣城を守備するのは中根正照を大将とする城兵1200人ほどであった。大軍を率いる信玄にすれば力攻めで簡単に落とせると目論んでいたと思われるが、天然の要害である二俣城を陥落させるのに手こずる。そこで信玄は二俣城内には井戸がなく、水を確保するために天竜川沿いの断崖上に櫓を組み水を汲み上げていることに着目。水の手を断ち切るため上流から大量の筏を流し、井戸櫓の柱を破壊する。籠城して抵抗した中根正照も水の手を絶たれたことで降伏する。10月16日に城が包囲され、開城したのは2か月後の12月19日であった。
 信玄は二俣城を12月22日に出立して秋葉街道を南下、浜松城に迫る。しかし浜松城を包囲することなく素通りして三方ヶ原台地に布陣する。信玄は二俣城を落とすのに2ケ月もの時間を要したことで、浜松城に籠城する家康を攻めるのでなく、城から誘い出して野戦に持ち込み勝敗を決める作戦に出たものと思われる。この作戦は信玄の目論見通りとなり、家康は城を出て三方ヶ原で戦闘を交え、その結果家康の大敗北となる。信玄は浜松城に逃げ帰った家康を攻めず、浜名湖北岸の刑部に滞在して越年する。翌年に三河に侵攻し現在の新城市にある野田城を攻めている。僅か500人の城兵が立てこもる城を落とすまでに1か月の時間を要している。おそらく信玄の病状が悪化したことも影響したのではないか。野田城を攻略した後、三河への侵攻を止めて信玄は甲斐への帰路につく。帰路の途中、4月19日に信玄は病死する。
 
 天竜浜名湖鉄道の二俣本町駅から徒歩で約15分。二俣城址の案内板に従い小道から急な階段、ほとんど梯子状の階段を上る。二俣城が自然の要害上に作られたことを思い知る。70歳の老人には息切れする階段を、やっとの思いで登り切ると緩やかな坂道(車道であった。急な階段を上らなくともゆったりとした登城路が別にあるようだ)となり北曲輪と本丸の間に作られた堀切の跡に出る。北曲輪は日清、日露戦争の戦没者を祀る神社の用地になっているようで、立ち入ることなく軽く一礼して本丸に向かう。
 二俣城は北から北曲輪、本丸、二の曲輪、蔵屋敷、南曲輪が連なる連郭式の縄張り。本丸には2ヵ所の虎口があり、北曲輪に近い喰違い式の虎口から入る。本丸は南北に約50m、東西に約40mの広さを持ち、東側に野面積みの石垣で造られた天守台がある。天守台に登れば、そこから眼下に天竜川を見渡せる。
 本丸と二の曲輪は本丸のもう一つの虎口である桝形門の脇とつながっている。桝形門はあまり良くは原形を留めていない。二の曲輪は本丸の半分程度の面積であるが、その虎口は石垣と櫓台によって守られた堅固な造りである。二の曲輪と蔵屋敷の間には深い堀切があり、堀切の底を下ると天竜川の堤防に行き着く。
 元亀3年(1572)に武田信玄が攻略した二俣城には先方衆(大名の本国・領国以外に領地を認められている家臣)芦田信守が城主となる。家康は信玄の死後天正元年(1573)に三河・遠江の武田側諸城を攻める。同年に二俣城も攻撃したが、この時は攻略できず撤退している。逆に信玄の跡を継いだ武田勝頼によって高天神城が落城させられるなど、家康には厳しい状況が続く。
 天正3年(1575)5月武田勝頼が織田、徳川の連合軍と長篠、設楽原の戦で敗退したことから事態が一変。家康は直ちに反攻を開始して武田側の諸城を攻撃。二俣城にも軍を出し二俣城と1kmほど離れて向い合う鳥羽山に付城を築く。このとき二俣城には芦田信守の他に信守の息子・依田信蕃も籠城しており、信守が籠城中に病死したため依田信蕃が城主を務めた。二俣城の城兵はよく戦ったが天正3年(1575)12月に城兵の無事退去を条件に降伏。依田信蕃も駿河田中城に撤退した。家康は占拠した二俣城に重臣の大久保忠世を城主に据える。大久保忠世は城の大改修に着手。現在残る天守台はこの時に築かれた。また、二俣城攻略のため付城として築いた鳥羽山城も改修し、庭園などを整備。実質的に二俣城と一体化した城郭となった。
 大久保忠世が城主であった天正7年(1579)8月家康の正室である築山御前が遠江の小藪村で謀殺される事件が起こる。これは築山御前と家康と築山御前の間に生まれた家康の嫡男・信康が武田側と内通していたとの理由で、織田信長が両名の成敗を家康に命じたことによるとされている。また、信康も9月に二俣城で自刃して果てる。(築山御前と信康が武田と内通していたとする説には異論も多い。また、信長が築山御前の謀殺、信康の切腹を命じたという説にも異論がある)
 天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原征伐の結果、家康は関東に転封となる。これにより二俣城は浜松城の城主となった秀吉の重臣・堀尾吉晴の支城となる。慶長5年(1600)関ヶ原の戦で東軍側に与した堀尾氏はその戦功で出雲に加増転封となり、二俣城は廃城となった。
 二俣城から天竜川の堤防に出て、二俣城攻略のために付城として築かれた鳥羽山城に向かう。両城は二俣川を挟んで(現在は流れを東に変えて両城の中間を流れていない)約1kmの距離にある。振り返れば、二俣城の山塊が見える。樹木で覆われた城跡は、ここで激しい戦闘があったことを想像さえさせない。天竜川の河原では老人のグループがゲートボールを楽しんでいる。二俣城の廃城から400有余年。長閑な農村風景だけが残っている。(2018年3月17日) 

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