城ある記
鳥羽山城は武田氏が支配する二俣城を攻略するため、家康が「付城」として築いたもの。築城当時は二俣城と鳥羽山城の中間地点を流れていた二俣川を挟んで約1kmの距離で対峙している。
付城が築かれたのは天正3年(1575)6月。その年の5月に武田勝頼が長篠・設楽原の戦で織田・徳川の連合軍に敗れたことを切っ掛けに、家康がそれまでに武田勢に奪われた諸城を取り戻すための攻勢に出た。家康は天正元年(1673)にも二俣城を攻めたが、この時は攻略できずに撤退している。今回は、その時の経験を生かしてか、長期戦を覚悟していたようだ。鳥羽山城をはじめとし、二俣城を取り囲んで5カ所ほどに付城や陣場(城)を設けたようだ。
このとき、二俣城を守っていたのは武田氏の先方衆である芦田信守とその子である依田信蕃。芦田信守は籠城中に病死。代わって依田信蕃が指揮を執る。二俣城に籠城する城兵はよく戦ったが、援軍が期待できない状況で城を包囲されればその時点で勝敗は決まっていたといってもよい。まして目と鼻の先の鳥羽山に本格的な付城が築かれたとなれば、良い条件で降伏するのが城主の務めともいえる。
包囲されてから半年後、12月に城兵の無事退去を条件に依田信蕃は降伏する。依田信蕃も駿河田中城に撤退する。
家康は攻略に成功した二俣城に重臣の大久保忠世を配した。大久保忠世は直ちに二俣城と鳥羽山城の大改修に取り掛かる。二俣城に天守台を築き、鳥羽山城の本丸には庭園を整備するなどし、両城を一体化した城郭として活用する方針であったようだ。二俣城を防御、攻撃の戦闘を意識した城郭とし、鳥羽山城は残された遺構から居住、接待用の城の役割を持たせているように見える。
秀吉による小田原征伐の後、家康は小田原北条家の所領であった関東への転封を命じられる。二俣城は秀吉の重臣堀尾吉晴の支配となるが、関ヶ原の戦のあと堀尾氏が出雲に転封になると廃城となった。 |