日本の城ある記(東海の城・長篠城)

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 長篠城  (ながしのじょう)


訪問記
 前回、長篠城のある新城市を訪れたのは何時だったのか、記憶が薄れるほど遠い昔になってしまった。 多分40年も昔のことだと思う。飯田線に乗って新城市を通過したことはそれ以後も何回かあったが、 新城の地に足を下ろしたことはなかったと思う。40年前に訪れた時、勿論その時も歴史で名高い長篠の戦のことは知っていたが、わざわざ設楽原の古戦場跡や長篠城に行ってはいない。仕事で訪れ、その後に猪鍋を食べたことはなんとなく覚えているだけだ。今回訪ねて、新城の町も少しだけ散策してみたが、昔を思い起こすことはなく初めて訪ねた町の気分だった。
 戦国時代の城巡りをするのであれば長篠城は外すことができない城。この城を巡る攻防が天下統一を志した信長の地位を一層強固なものとし、また徳川家康が武田軍に潰されることなく生き延びて天下を取ることができた礎になったと言っても大袈裟ではないと思う。そんなイメージで長篠城跡を歩いてみる。紅色に染まった木々の落ち葉が、何だか武将たちが流した血の色にも見えてくる。豊川、宇連川の清流が時の流れの無情さを教えてくれる。(2011年12月17日)
 
 長篠に最初に城を築いたのは永正5年(1508)今川氏親と同盟を結ぶ奥三河を支配する豪族菅沼元成とされる。長篠城は豊川(当時は寒狭川)と宇連川(当時は大野川)が合流する断崖絶壁城に本丸を置き、二の丸、三の丸等の曲輪を配した堅固な要塞。伊那から三河への交通の要所にあり、奥三河支配の重要拠点であった。
 今川滅亡後、菅沼元成の子孫は徳川家康に服従した。しかし、元亀2年(1571)武田軍の攻撃を受け、武田の配下となる。元亀4年になって武田軍は本国に撤退、この間隙をぬって今度は徳川軍が長篠城を奮取。この後家康は武田軍の侵攻に備えて城を修復・拡張。現在残る城郭跡はこの時のものと考えられている。 
 
 
武田軍と織田・徳川の連合軍が対峙した長篠・設楽原の戦いは天正3年(1575)の4月12日、武田信玄の3回忌法要を済ませた武田勝頼の出陣から始まる。武田軍が長篠城を包囲したのは5月1日。長篠城を守るのは奥平信昌の兵500。
 徳川家康の後詰めの要請を受け織田信長が岐阜を発したのが13日のことだとされる。信長は18日には長篠城から約4.5km離れた設楽郷、極楽寺山に本陣を置いた。岐阜を発つとき、信長は兵一人づつに柵木一本、縄一束を持たせた。長篠城の攻防であっても、当初より決戦の場を設楽原と決めての出陣であった。武田勝頼は前年の天正2年(1574)に織田信長が支配する東美濃に侵攻し、更に家康側の遠江の拠点、高天神城を陥れている。その勢いをかって長篠に出陣したからには、正面から決戦を挑んでくるものと信長は考えていたという。武田勝頼の血気にはやる気持ちを見抜き、それを利用した心理戦では信長の方が長じていた。信長は設楽郷に着くとすぐに騎馬の侵攻を防ぐ柵を設けた陣城を築く。そして武田軍を誘い出す為の挑発を行う。この策に乗った勝頼は、20日長篠城包囲のための一部の兵を除き、主力を設楽が原に向けた。兵力は武田軍2万に対して織田・徳川の連合軍は約3万5千だったとされる。当時最強の軍団と言われた武田軍だがそれは騎馬武者が主力の軍団である。対する織田軍は千5百丁の鉄砲足軽が柵内に籠って待ちうける作戦である。21日早朝から8時間にわたる戦闘で武田軍は壊滅的な大敗を喫する。とはいえ両軍とも多くの損害を出した。武田軍1万2千人の犠牲者に対して織田・徳川連合軍も6千人の犠牲者を出した。長篠城はこの戦の後、損傷が激しいことから廃城となった。

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