日本の城ある記(東海の城・吉田城)

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 吉田城  (よしだじょう)

訪問記
 私が通った大学の本校は吉田城のある豊橋市だった。ただし、私は本校ではなく名古屋市内にある校舎に通っていたので、本校を訪れるのは年に4、5回しかなかった。しかも本校へ行っても大抵の場合他に立ち寄ることもなかったので吉田城の存在場所すら知らず、従って一度も訪れたことはなかった。 吉田城の存在を知ったのは社会人になって自分で車を運転するようになってから。吉田城は国道一号線上から見ることができた。当時はバイパスもできておらず、潮見坂を経由して浜松方面へドライブに行った折には必ず目にしていた。とはいえ、信号待ちをしたときに再建された櫓を見ても、わざわざ寄り道をしたいと考えることはなかった。それが、歳を重ねて歴史に興味を持ったということでもないのだが、健康維持のために日本橋から京都の五条大橋までの旧東海道を歩いてみようと考えていたこともあって(ほんの一部を歩いたが、まだほとんど実行していない)吉田城下に続く御油の松並木を歩いた後に、ついでに立ち寄った。
 真夏のウィークデイということもあってか、吉田城目当ての観光客は私と同行のカミさんしかいなかった。車を止めた隣接する市役所の駐車場は満杯であったが、ここまで足を延ばす人はいないようだ。
 案内板に記された吉田城の規模はかなり広大だったが、掘割の大部分は埋め立てられ、敷地のかなりの部分は市役所などの公共機関の施設となっている。城址公園として整備されているのは僅かとなっている。地方都市の活況からは埋もれてしまったような存在の城跡ではあるが、却って妙に観光地化されていないのがよい。戦国戦乱の時代に吉田城が果たした役割をよくは知らないが、焼きつける陽射しと蝉の声、緑の芝生に包まれた昼下がりの小一時間、妙に心が軽やかになった。(2007年8月6日)
 吉田城は豊川と朝倉川の合流地点に立地、自然の川を堀として利用した要害の地にある。また駿河や関東方面から京へ上る通過点にあり、古くから商業的にも軍事的にも重要な地点であったことが想像できる。最初に築城したのは永正2(1505)に今川氏親の命を受けた牧野古白(宝飯郡・長山一色城主)だとされる。西三河で勢力を拡大しつつあった松平氏の東三河旬出に備える為であった。戦国時代を通して駿河の今川と三河の松平、それに渥美半島で勢力をもっていた戸田氏との闘いが頻繁に行われ、この地の支配権も度々代わり、従って吉田城(当時は今橋城といった)の城主も頻繁に交代したようだ。 
 永禄3(1560)今川義元が桶狭間で織田信長によって討たれると、永禄8(1565)に家康が吉田城を攻略し三河全域の支配権を今川氏から奪い取った。 家康は本多広孝を城代に配置。永禄11(1568)の遠江侵攻の拠点とした。
 遠江を支配下にした家康は甲斐の武田氏と元亀2(1572)から天正10(1582)に至るまで、三河・遠江で幾度か攻防を繰り広げる。家康側は当初は劣勢で元亀2(1572)には吉田城下まで攻め込まれたが、頑強に守り抜き、なんとか撃退したという。
 天正18(1590)、家康が豊臣秀吉により関東へ移封されと、吉田城には池田照政が東三河15万石の城主として入城した。江戸時代を通して東海道を守る要としての位置づけは変わらなかったが、城主は頻繁に交代した。何れも3万石から8万石の譜代大名の赴任地であったようだ。
 最後の藩主となった松平(大河内)信古は徳川家光の時代に活躍した「伊豆知恵」こと松平信綱の家系。鳥羽伏見に闘いの後は官側につき、吉田城下での戦闘は無かった。
 

吉田藩 歴代藩主
 家紋  入封時期  禄高  入封時藩主  
 慶長6
(1601)
 3万石 松平(竹谷)家清(譜代)武蔵八幡山より入封  
慶長17
(1612) 
3万石  松平(深溝)忠利(譜代)三河深溝より入封  
 寛永9
(1632)
 4万石 水野忠清(譜代)三河刈谷より入封  
 寛永19
(1642)
 4万5千石 水野忠善(譜代)駿河田中より入封   
 正保2
(1645)
 4万5千石 小笠原忠知(譜代)豊後杵築より入封  
元禄10
(1697) 
5万石  久世重之(譜代)丹波亀山より入封  
 宝永2
(1705)
8万石 牧野成春(譜代)下総関宿より入封  
 正徳2
(1712)
 7万石 松平(大河内)信祝(譜代)下総古河より入封  
 享保14
(1729)
 7万石 松平(本庄)資訓(譜代)遠江浜松より入封  
 寛延2
(1749)
 7万石 松平(大河内)信複(譜代)遠江浜松より入封   

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