日本の城ある記(東海の城・田原城)

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 田原城  (たはらじょう)

訪問記
 田原藩について知っていることは幕末に活躍した渡辺崋山のこと。もっとも、名前は知っていたがその渡辺崋山が何を成したのかまでは詳しくは知らない。私が田原を訪ねた理由は城見物以外にもう一つある。学生時代にゼミの先生の実家が田原にあり、そこで夏季に合宿をしたことがある。 優秀な学生が集まるゼミにあって私一人は不心得者であったため、卒業してから1,2度先生にお会いした程度であり、従って合宿した先生の実家が何処にあったのかすっかり忘れている。だから訪ねたとしても行き着くことはできないと思っていたし、案の定、訪ね宛てることはできなかった。
 それでも、少しは青春時代の一コマを想い出すことはできた。長閑な田園地帯は今も昔のままであった。と、感じたのは渥美半島の太平洋側を走っている時だけだった。渥美湾に面した田原地区はすっかり様相が変わっていた。日本を代表する自動車会社の一大拠点となっていた。道路も一部の幹線道路を除けば田舎道しかなかったが、今はどこに行っても快適な道路が整備されている。半世紀近く経てば変るのは当然だが、その変化にはやはり驚かされた。
 田原城は今回が初めての訪問である。田舎の小藩であっても崋山という偉人を輩出した藩のお城がどのような佇まいであるのか興味を持って門をくぐった。(2011年12月17日)
 
 田原城は渥美半島一帯に勢力を持っていた戸田氏によって文明12年(1480)頃に築城されたとされる。渥美半島のほぼ中央の小高い丘の上に築かれ、築城当時は渥美湾の入り江が城下まで迫り、巴型に水掘りを張り巡らせていた。この城郭の形状から「巴江城」とも呼称された。戸田市は当初は三河の松平氏に、後に今川氏に属した。天文16年(1547)戸田康光が城主のとき、人質として今川氏の本拠地駿府に送られる松平竹千代(後の家康)を、寝返って敵の織田信秀に送り、このため今川氏の攻撃を受けて落城、戸田康光も戦死した。その後今川氏の支城となるが、今川氏の没落により徳川家康が攻略。家康配下の本多広孝が城主となる。
 天正18年(1590)家康が関東に移封されると、吉田城に入った池田輝政の支配となる。この頃に近世城郭に相応しい石垣の整備、曲輪の拡張が行われた。
 関ヶ原以降は戸田家の一族、戸田尊次が入封し、寛文4年(1664)に譜代大名の三宅康勝が入封し、幕末まで続いた。現在、本丸は巴江神社の境内となり、大手門、二の丸櫓が再建されている。ただし再建された二の丸櫓は史実とは異なる様相のもの。石垣は16世紀に野面積みで築かれたものがそのまま残っているが、残念ながら多くの遺構は再開発によって消え去ってしまっている。
 

田原藩 歴代藩主
家紋 入封時期  禄高  入封時藩主   
慶長6年
(1601)
1万石 戸田尊次(譜代)伊豆下田より入封  
寛文4年
(1664)
1万2千石 三宅康勝(譜代)三河挙母より入封  

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