日本の城ある記(東海の城・岡崎城)

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 岡崎城  (おかざきじょう)

訪問記
 岡崎城が徳川家康ゆかりの城であることは歴史音痴の人でも知っていることではないだろうか。この近く(といっても30キロ近くは離れているが)に住んでいた私にはなじみのある城である。とはいえ、岡崎城の城内に入った記憶はない。小学生の頃、多分遠足などで行ったことがあるのではと思うが、記憶にない。
 再建された天守閣はお城の北側を走る国道一号線からも、南側を走る名鉄電車の車窓からも眺めることはできる。社会人になってからも、仕事でこの地区を担当していたこともあり天守閣は何度も目にした。身近な存在であったが、むしろそのことが災いしたのではと思う。わざわざ城見物に出かけようとは思わなかった。それが、久し振りに国道一号線を走ったとき、道路に面した場所に立派な城門が再建されているのを目にした。場違いに立派な城門に感じたが、なんだか私を招き入れようとしているようにも見える。誘われるまま、城内に入り込んだ。
 城内に入り、意外に感じたのは岡崎城は単に平たんな地形上に築かれたのではなく、結構起伏に富んだ地形に築かれていたこと。南西方向からは矢作川を天然の濠とした要害の地に見えるが、城門のある反対側からみれば平たんな場所に築かれた城との印象しかなかった。それが城門をくぐり天守閣に向かって少し歩くと、深い空掘りに出会う。天守台も予想以上に高台に築かれている。さすが家康ゆかりの城の縄張りと感心する。天守閣に登り城下を見渡すと、北の方角には松平家ゆかりの大樹寺の大屋根が眺められる。矢作川の対岸には岡崎名物の八丁味噌の味噌蔵も見える。そういえば、八丁味噌を塗った味噌田楽を暫く食べていない。城見物の帰りにどこかで食べて帰ることにします。(2009年8月2日)
 
 岡崎城(築城当時は龍燈山城と呼んだ)は享徳1(1452)に三河国守護職仁木氏の守護代西郷氏によって築かれたのが最初といわれる。小高い丘であった龍燈山に築かれた砦程度の規模であった。享禄4(1531)に家康の祖父に当たるこの地方の弱小氏族であった松平清康が奪い取り、城郭を整備。天文11(1542)には後の家康、竹千代が岡崎城で誕生する。家康の父、松平弘忠は今川義元に臣従し、竹千代を人質として駿府に送るが、その道中で渥美の豪族であった戸田氏に奪われ、尾張の織田家へ人質として連れて行かれることになる。ここで竹千代は信長と知り合う。運命の悪戯というか、このあたりの史実はまさに事実は小説より奇なりの感である。さらに松平弘忠は家臣の謀反で殺害され、今川の家臣が岡崎城の城代として入城し、織田と今川の捕虜交換によって、結局は家康(竹千代)は駿府で人質生活を送ることになる。
 今川義元は永禄3(1560)に桶狭間で織田信長に討たれる。その混乱に乗じて家康は岡崎城を今川の手から奪い返した。天正18(1590)豊臣秀吉の小田原攻めで北条氏が敗れると、秀吉は家康を関東に移封させ、岡崎城は秀吉の家臣田中吉政が入城する。田中吉政は 関東の家康の抑えとして城を拡張、石垣を築いて近世城郭として整備した。同時に城下町の整備も積極的に行い、東海道を城下町の中心に通して、戦闘時の防御策の一つとして「岡崎の27曲がり」といわれるクランク状の街道も造った。
 関ヶ原の後、慶長7(1602)に徳川の重臣である本多康重が入封。元和3(1617)三層の天守閣が完成する。以後、家康誕生の地として重要視され、譜代大名が歴代の城主を務めることになる。 
   

岡崎藩 歴代藩主
 家紋  入封時期  禄高  入封時藩主  
慶長6
(1601) 
 5万石 本多康重(譜代)上野白井より入封  
 正保2
(1645)
 5万石 水野忠善(譜代)三河吉田より入封  
 宝暦12
(1762)
 5万石 松平(松井)康福(譜代)下総古河より入封   
明和6
(1769) 
5万石 本多忠粛(譜代)石見浜田より入封  

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