日本の城ある記(東海の城・西尾城)

 東海の城 トップページへ 日本の城ある記 トップページへ 
 西尾城  (にしおじょう)

訪問記
 名古屋で勤務していた時代、安城、刈谷、岡崎、豊田へは仕事で何度もは足を運んだ。だが西尾を訪れた記憶はない。自動車関連の工場や事業所が無かったわけではないと思うのだが、何故か縁がなかった。中世の西尾は吉田(豊橋)、岡崎と並んで三河地方の中心都市であった。近代においても安城・刈谷に隣接した立地であり自動車産業の進出がなかった訳ではないのだが、私には何故か離れ小島のような存在であった。江戸時代、東海道筋からは離れ、明治になってからも鉄道の東海道線は市域を通過していない。どうやらそんな理由が辺鄙な場所であると私の頭に固定観念として植え付けられていたようだ。
 名鉄電車の西尾駅から城跡に向かって歩く。この地域のどこにでもある風景、直線に延びた広い道路とまばらな人影、そんな景色の中を歩く。しかし少し歩いて掘割のような北浜川を渡り横道にそれると城下町を連想させる町の名がいくつか現れる。路地のような道もあるので、かっての城下町の名残かもしれない。木造平屋の今も商店として使われている家屋もある。江戸時代から続く建物が残っている様には思えないが、ここに長く住んでいる人の落ち着いた暮らしぶりが感じられる。西尾城址へはまっすぐ歩けば駅から15分もかからない。ちょっと寄り道したし、暑さのせいで30分くらいかけて再建された二の丸の櫓門(鍮石門=ちゅうじゃくもん)に到着する。鍮石門は門扉に真鍮を用いたことから名付けられたという。西尾城は二の丸に天守台がある。ここに三重櫓が建てられ、御殿も二の丸にあった。まずは新しく石組された天守台に登り、本丸に再建された三重櫓を眺めて昔の栄華を偲ぶ。(2014年8月21日)

 西尾城は古くは西条城といったという。承久年間(1219〜1222)吉良氏の祖となる足利義氏が承久の乱の功績により三河守護に任じられ、幡豆郡吉良荘の西条(西尾)と東条(吉良町)に城を築く。西条城は長男、東条城は三男を城主に配したとされる。以後それぞれ地名をとって西条吉良、東条吉良を名乗ったという。もっともこれには異説もある様で確かなことは分っていない。いずれにせよ、以来この地は吉良氏の支配することになったのは確かなようです。
 応仁の乱では西条吉良氏は細川方、東条吉良は山名方に分けれて争うようになり一族の力が衰えることとになり、戦国時代には駿河の今川氏の支配下となる。その今川氏も永禄3年(1560) 桶狭間で討たれて没落。永禄4年には岡崎城を支配した家康が西条城を攻略。家臣の酒井正親を城主に据える。このとき酒井正親は西条から西尾城に改名したといわれているが、それ以前にも西尾城と記された古文書もある様で確証はない。
 天正18年(1590)家康の関東移封によって岡崎城に入城した田中政吉が、その支城として西尾城を拡張整備。寛永15年(1638)に下野山川から入封した太田資宗は城下を堀で囲む総構の工事に着手。この工事は明暦3年(1657)井伊直好の代になって完成する。
 西尾城は比高10m程の段丘上に築かれた平城。南西部に本丸を配し、西に二の丸、および東の丸、北の丸、三の丸を築く。さらに城下町を堀で囲い、その外側は沼地であったという。本丸に天守はなく、二の丸の北西隅に天守台を築き三重櫓をあげた。明治になってほとんどの堀は埋め立てられ、建物も撤去されたが、平成8年(1996)に丑寅櫓(本丸の東隅)と二の丸の大手にあたる鍮石門が復元された。

西尾藩 歴代藩主
 家紋  入封時期  禄高  入封時藩主  
慶長6年
(1601)
2万石 本多康俊(譜代)下総小篠より入封  
元和3年
(1617)
2万石 松平(大給)成重(譜代)下野板橋より入封  
元和7年
(1621)
3万5千石 本多俊次(譜代)近江膳所より入封  
寛永15年
(1638)
3万5千石 太田資宗(譜代)下野山川より入封  
 正保2年
(1645)
 3万5千石 井伊直好(譜代)上野安中より入封   
 万治2年
(1659)
 2万石 増山正利(譜代)相模より入封   
 寛文3年
(1663)
 2万3千石 土井利長(譜代)下野より入封   
延享4年
(1747) 
 2万3千石 三浦義理(譜代)三河刈谷より入封   
 葵の字  明和元年
(1764)
 6万石 松平(大給)乗佑(譜代)出羽山形より入封   

  ページトップへ 

 
Copyright(C) tenjikuroujin.jp All Rights Reserved.