日本の城ある記(東海の城・新城城) 

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 新城城 (しんしろじょう)   

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 新城市の地名の基となったのはこの地に「新城」が築かれたことに由来する。「新城」は天正3年(1575)長篠の戦で武田軍の攻撃から長篠城を守り抜いた奥平信昌が、損傷激しい長篠城に変わって新たに築いた城。ただし、奥平氏が築城する以前の天文元年(1532)にこの地域を支配していた菅沼定継が「新城」の北方約2.5kmにあった大谷城から奥平氏の築いた「新城」の近くに新しく築城して移り住んだ。地名の新城はこれに由来するとの説もある。地元では菅沼氏の築いた城を「新城古城」奥平氏の築いた城を「新城城」と呼んで区別している。「新城古城」が存続していた期間は天文元年(1532)〜永禄5年(1562)であったようだ。
 奥平氏の祖は三河国作手の有力国人で、作手亀山城を本拠としていた。当初は今川方に属し、桶狭間の戦(永禄3年・1560)後に徳川の傘下となる。しかし元亀4年(1573)の武田信玄の三河侵攻により武田側に属することになる。強いものに従うのは地方豪族の生き残り策としては当然の選択なのだろう。しかし信玄は野田城を包囲して陥落させたが持病が悪化、甲府へ撤退。信玄は同年4月に信濃駒場で急死する。徳川家康は奥三河における武田の勢力を牽制するため奥平貞能に家康の長女・亀姫を貞能の長男貞昌(信昌)に嫁がせる等の条件を出して懐柔、奥平氏は徳川家康の家臣となる。奥平氏の離反に武田勝頼は激怒し、このことが天正3年(1575)の設楽長篠の合戦の契機となり、やがて武田家滅亡へつながってゆく。
 天正18年(1590)家康の関東移封に伴って奥平信昌は上野国甘楽郡宮崎へ3万石で転封する。慶長11年(1606)新城城には家康の家臣・水野文長(わけなが)が1万石で城主となり、元和6年(1620)に文長の長男・元綱が城主となる。慶安元年(1648)菅沼定実(さだざね)が7千石で入封。旗本(交代寄合)として新城城に陣屋を構える。菅沼家は以後明治に至るまで代々この地の領主であった。なお菅沼定実の祖先は野田城に籠城して武田信玄と戦った菅沼定盈(さだみつ)。また定実は1万石を拝領して本来なら大名格であるところ、3千石を弟の定賞に分地したため交代寄合(所領に住み江戸へ参勤交代を行う旗本格)となった。
 現在の新城城(陣屋)跡の大半は小学校用地となっていた。訪れたのは平日の午前。ちょうど体育の授業が始まるのか生徒(学童)と先生が校庭(運動場)に出てきたところだった。城の遺構は校庭の奥にある。学校の敷地を横断しないと行くことができない。若い女性の先生に「城の遺構を見たいのだが入ってよいか」と聞くと「どうぞ」と即答。疑うような様子もないので、私のような見学者は結構多いのかもしれない。もっとも城の遺構と言っても土塁の一部が残っているだけ。土塁の奥は灌木と竹藪が密集して立ち入ることは困難。少しがっかり。僅かな時間滞在しただけで校庭を離れる。学校横の道路を豊川の川岸まで下る。そこには新河岸の案内板。新城は伊奈街道、別所街道、秋葉街道、遠州街道、望月街道に通じる交通の要衝であり、豊川を利用した水運の要の地であったようだ。(2019年3月12日)

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