日本の城ある記(東海の城・古宮城) 

東海の城 トップページへ 日本の城ある記 トップページへ 
 古宮城 (ふるみやじょう) 


ある 
 古宮城は新城市作手(つくで)地区にある。新城市が運営する「Sバス」で新城市街から約40分の距離。バス停はJRの新城駅前にあると思っていたが違っていた。新城城を訪問しての帰り道、市役所の案内所でバス停の位置を聞く。1日7便あるバスの12時ちょっと過ぎに市役所近くの中町を発車するバスに乗る。

 作手地区は平成17年(2005)に鳳来町とともに新城市と合併して新城市の一部となった村。新城市の中心部から北西に直線距離で約15キロの位置にあり、平均標高550mの高原地帯にある。訪れたのは3月中旬。終点の一つ手前「鴨ケ谷口」で下車。防寒ジャケットを着ているが少し寒さを感じる。古宮城はバス停の目の前にある。小高い丘の、丘全体が古宮城の縄張りである。新城市のホームページに掲載されている案内書には「東西200m南北150m、比高約25mの一山全体が城域」とある。上掲の縄張り図も新城市のHPから転載したものです。少し急ぎ足になって歩き出し、古宮城の登城口とされる白鳥神社を目指す。神社の右手に階段があり、ここから古宮城に入る。ただし本来の大手口はここではなく、城域の南西角地であるようだが、現在は民家の裏手となっていて入り込むことは出来ないようだ。
 城は中央(南北)を大堀切(竪堀)で隔てられた主郭(東本丸・東二の丸)と2の郭(西本丸・西二の丸)に分けられ、一城別郭の形式である。
 白鳥神社横の階段を上ると、いきなり山城の雰囲気になる。土塁が明瞭に残っている。植林された桧(杉?)の木立が少々視界を遮るが、戦国時代の山城が今も良好な形で残っているのはこのお蔭でもあるのだろう。
 東南曲輪から主郭下の空堀を左手に進むと主郭(東本丸)の虎口に出る。この虎口は両袖桝形の虎口で非常に大きい。虎口を抜けると、主郭(東本丸。東二の丸)に出る。主郭(東本丸)は城の最高地点に築かれている。南側には櫓台が築かれていたと想定される平坦地がある。主郭には土塁が巡らされ、仕切土塁で東西二つ(東本丸、東二の丸)に区切られている。東本丸とされる郭より東二の丸とされる郭の方が一段高く築かれているようだ。登り始めて10分ほどで主郭に到着するのは何だかあっけない。築城当時はおそらく何層もの郭や堀、登り土塁などで防御され容易く近ずくことは出来なかっただろう。
 東主郭から2の郭(西主郭)へ。本来の登城ルートとは逆の順序だから少し違和感もあるが頭の中を整理しながらゆっくりと歩く。東主郭と2の郭は大堀切(竪堀)で隔てられているが、頂点にあたる部分で土塁(土橋)で結ばれている。2の郭は東西に長い郭で仕切り土塁で区切られており、西側の郭(西本丸)は周囲を土塁で巡らせているが東側の郭(西二の丸)は東西には土塁があるが東側に土塁がない。また北側に虎口が設けられて、虎口の先は大堀切に沿って細長い郭(西三の丸)がある。この構造から変形の馬出と推定されている。
 縄張り図を参考としながら歩いているのだが、頭の中が少々混乱している。予想していた以上に古宮城のスケールが大きい。また土塁や空堀の保存状態も良好で、本来なら城郭の姿をしっかりとイメージできるというものだが、逆にスケールに圧倒され、土の持つ不思議な質感に戸惑うばかりだ。古宮城はこれまで見てきた山城とは全く異なる。
 2の郭の北西側は何本もの横堀が掘られている。この堀は行き止まりとなったり、上段から常に攻撃されることから侵入する敵には極めて厳しい構造になっている。またこの多重横堀は古宮城の見どころの一つのようで、下から見上げると高い土堀で囲われた段々畑のようにも見える。
 東主郭の北東には駐屯兵などが居住するための郭が配置され、竪堀も何本か掘られ横への移動を制限している。 
 西側虎口、本来の大手口からの登城路は城郭の北側へと誘導され、多重横堀の下を通る構造になっている。また多重横堀は迷路のようになっているので容易に突破できない仕掛けになっている。
 古宮城は東三河侵略の拠点として武田信玄によって築かれた城。縄張りは武田四天王の一人であり、築城の名手であった馬場信春とされる。かつてこの地は奥平氏が古山城から1.5kmほど離れた亀山城を拠点として支配していたが、武田氏の侵攻によって奥平氏は武田氏に従属。武田氏の重臣・山県昌景の傘下となる。しかし信玄は元亀4年(1573)に病状が悪化して死去。奥平氏は徳川氏の傘下となり、長篠城に籠る。信玄の跡を継いだ勝頼は天正3年(1575)長篠設楽原の戦で大敗。古宮城も徳川、奥平の連合軍によって落城したという。(2019年3月12日)

  ページトップへ 

 
Copyright(C) tenjikuroujin.jp All Rights Reserved.