日本の城ある記(東海の城・亀山城) 

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 作手 亀山城 (かめやまじょう) 

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 古宮城から1.5kmほどの距離にある亀山城を訪ねる。徒歩で20分ほどで到着する。亀山城址の案内板に従って登城口と思われる階段状の道を進む。腰曲輪、南曲輪、西曲輪を経て、本丸までほぼ一直線。 後で分かったことだが、これは本来の大手口とは違っていた。大手口はもう少し奥の北西にあり、本丸のある主郭の北を回り込むようにして二の丸に行き、ここから本丸に行くのがルートのようだ。規模は比較できないが古宮城に似ている。但し、それほど複雑な縄張りではなく、樹木が伐採されているので見通しが良く、古宮城で感じたような混乱はない。
 本丸は広々とした平坦地。東西約60m、南北約30mほどの楕円形で周りに土塁を巡らせている。亀山城は応永31年(1424)上野国からこの地に移り住んだ奥平貞俊によって築城されたという。奥平氏はこの地で支配者としての地位を築くが、戦国時代には今川氏、松平(徳川)氏、武田氏などの影響を絶えず受け、その配下を転々とせざるを得なかった。元亀年間(1570〜1573)の信玄による奥三河侵攻に際して奥平氏は武田氏に従属したが、元亀4年(1573)信玄の死により再び徳川家康の傘下になり長篠城の城主に転出する。天正3年(1575)武田勝頼は1万5千の兵力で長篠城を包囲するが長篠城に籠城した奥平貞昌(信昌)は持ち堪え、長篠設楽原の合戦で織田、徳川連合軍の勝利に貢献する。奥平信昌は新城に新たな城を築城。作手亀山城は奥平氏にとって拠点の城ではなくなったが維持はされていたようだ。関ヶ原の戦い後、慶長7年(1602)信昌の4男・松平忠明が1万7千石を拝して作手亀山城の城主となるが、慶長15年(1610)に伊勢亀山城に転封となり、作手亀山城は廃城となった。
 
 本丸から二の丸へ。一見なだらかな様相に見えるが、やはり山城である。本丸斜面は勾配のきつい切岸で容易に登ることは出来ない。二の丸と本丸との間の虎口も土塁で防護を固めている。二の丸から下って、主郭(本丸)の北に出る。主郭を取り巻りまくように曲輪が築かれている。土塁の跡も見られ、樹木に覆われているが広さを感じる。「濠」「虎口」「大手跡」と書かれた案内標識を見て城外に出る。先に見た古宮城とは規模的に比較できない違いはあるが、小ながら城の機能は十分備えているとおもう。この地域にはこの規模の城が良い。そんな趣の城郭である。(2019年3月12日) 

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